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2020年5月

2020年5月30日 (土)

【私の武術慢歩】 第二次太極拳学習訪中団

 このころは、いざなぎ景気が終わり景気は下り坂で、1973年の第1次オイルショックの影響でトイレットペーパーの買い占め騒ぎ、狂乱物価が起こる。これで高度経済成長期が終わりを告げ低成長期が始まる。

 日中国交正常化の立役者である田中角栄は1974年末に首相を辞任する。
 不況によって私の勤める会社も人員整理をすることになり、事務部門に配転になる。この辺の話は後で出てくると思う。

 そんな時期、就職して二年目1975年の夏に、中国に太極拳を習いに行かないかと三浦さん(三浦英夫専務理事)からお声がかかった。第二次太極拳学習訪中団である。

 私は太極拳を始めて一年も経たない時期だったが、指導員の下の研究員として指導する側に回っていた。
 太極拳がどんどん面白くなってきた時期で、もちろん本場で学びたいし、中国はおいそれと行ける国でもない、すごいチャンスである。ありがたく拝命したが、旅程は二週間だという。入りたての会社員がそんなに休みが取れるものかと思ったが、直属上司が優しい人で、なんとかオーケーを出してもらった。

 三浦英夫団長、中野晴美秘書長と言うことで、秘書長と言うのは中国式でナンバー2のことらしい。副団長と言うことだなと理解した。

 他のメンバーは武田幸子さん、小嶋光男さん、潮田強君と私だった。武田さんは後に「女子太極拳クラブ」を主宰する。小嶋さんは長拳グループで活躍していた。この件は別稿とする。潮田君は後の第四次訪中団でも一緒で、八極拳を習うことになる。これも別稿で。

 当時は中国へ行くのはかなり難しく、中国政府のインビテーションが必要だった。この訪中団は国家体育委員会か中華全国体育総会の招待だったと思う。中国の組織はよく分からない。
 政府の招待だから、中国滞在中の費用はすべて中国政府持ちで、往復の飛行機代だけ本人負担だということだった。そんなうまい話があるのかと思ったが、その飛行機代が30万円という結構な額で、当時の私の月給4~5か月分だったと思う。何とか工面できた。

 出発は1975年10月3日14:55発の中国民航924便である。当時の中国の航空会社は1社だけで、中国航路は日本航空も就航していたと思うが、中国政府の招待で行くのだから中国の飛行機を使うのが礼儀、みたいなことを三浦さんが言っていた。

 成田空港が開港するのはまだ先のことで、1978年5月に新東京国際空港として開港し、一般には成田空港と呼ばれていた。私ぐらいの年配なら、成田闘争(三里塚闘争)を覚えているだろう。成田国際空港株式会社として民営化されるのは2004年のことである。
 というわけで、この時は当然羽田空港からの出発となる。

 次回は中国へ飛ぶ。

 

2020年5月23日 (土)

【私の武術慢歩】 日本太極拳協会で太極拳を習う

いよいよ太極拳を習うことになった。
 
 これから先、昔のこととて記憶が怪しい。特に時系列があやふやである。今調べられることは極力調べたいとは思っているが、誤りや情報不足は避けられないだろう。訂正、追加情報をお寄せいただければありがたい。

 当時、日本太極拳協会では簡化二十四式太極拳を主に教えていた。
 この太極拳は、中華人民共和国が成立して、毛沢東が「人民体育向上のために」と国家体育委員会に命じて作らせたという。中心になったのは李天驥師だと聞いた。李天驥師の父君は李玉琳師で、孫禄堂先生の弟子だったというのを知るのは後のことだ。

 簡化太極拳は、楊式太極拳の型(套路と言うのだと教わった)を一般の人がやりやすいように短く簡単にしたもので、24の動作(技)がある。それをいくつかずつ分解して教えてもらうのだが、動きがゆっくりなので運動神経の鈍い私でも見た通り言われたとおりに動くことができる。やっているうちに面白くなり、やめられなくなってしまった。

 協会では他に、楊式太極拳を套路の順番はそのままに動作だけ簡略にした八十八式太極拳をやっていて、楊澄甫先生の八十五式をベースにしたものである。当時楊式太極拳というと、それしかないと思っていた。
 推手もやっていて、平円、立円の単推手と双推手があった。最初から活歩があったかは定かでない。

 断片的に聞いたことをまとめると、数年前、たぶん日中国交正常化の直後ぐらいと思うが、日本武道と中国武術の交流代表団が北京に行っていて、そこで習ってきた太極拳を武道館で教え始めたということのようである。日本太極拳協会ではこの代表団を第一次太極拳学習訪中団と位置付けていた。
 私が入会したころは第一次訪中団のメンバーが結構いたようだが、日が経つにつれ、だんだん少なくなっていった。

 日中国交正常化とは、日本国と中華人民共和国が日中共同声明により国交を結んだもので、1972年9月の北京で田中角栄、周恩来両首相が署名して調印された。
 1971年にピンポン外交をきっかけに米ニクソン大統領が訪中して国交を開いたが、日本では「頭越し外交」として話題になった。そこからの必然の流だったであろう。

 李自力著『日中太極拳交流史』46ページによると、古井美実氏が二度目の訪中時に簡化二十四式太極拳の図解テキストをもらったのが始まりで、1969年に日本太極拳協会を設立し会長となったとある。古井氏とともに日中国交回復に貢献した岡崎嘉平太氏の名前も当時の協会で耳にした。

 しかし本格的な太極拳の指導が行われるようになったのは、やはりこの第一次訪中団からではないだろうか。当時の太極拳の指導は、立身中正などの正しい姿勢、放鬆、視線や意識の置き方など、今の私から見てもきちんとしたものだったと思う。

 楽しく通っていて、翌年の夏には手足の冷えも気にならなくなっていた。一年も経たないうちに、いつの間にか教える側になっていた。

 協会の話はいろいろあるが、次回はとりあえず中国へ行ってみようか。



2020年5月16日 (土)

【私の武術慢歩】 太極拳に出会う

 就職先は東京の会社で、日本の商社とアメリカ第2のコンピュータ・メーカーの合弁会社で、半蔵門の真向かいの角にビルがあった。

 同期の新人3人が営業推進部というところに配属された。営業活動の支援をするということで、デモ・プログラムを書いたり、システム・エンジニア的な仕事だと言う。
 元が商社だけあって営業に力を入れているようで、東京での研修は座学の他にテリトリーを決められて飛び込みで営業(セールス)するというとんでもないもので、ストレスは半端ではなかった。
 さらに名古屋で1~2週間、静岡で1か月間の研修を終えて東京に戻ったのは、梅雨明けのころだった。

 仕事はデスクワークが主で、朝出勤すると先輩と一緒に近くの喫茶店で時間をつぶしたり、今では考えられない緩さだったが、そこも営業的だったのかもしれない。

 夏になると冷房が、効きすぎて、手足が冷たくなる。今まで冷房のある環境などなかったので、このままでは体を壊してしまうのでhあと不安だった。しかし仕事に慣れるのに精いっぱいで、何をすることもなく日が過ぎ、いつの間にか秋になっていた。
 そのころ松田隆智著『太極拳入門』、同『少林拳入門』を買った記憶がある。

 職場はビルの6階ですぐ目の前が半蔵門、その奥に皇居が広がっている。日本武道館の八角形の屋根を毎日眺めていて、そこで太極拳をやっていることは雑誌の立ち読みで知っていた。たぶん『月刊空手道』だったと思う。

 ずっと独身寮と会社の往復だけだったが、入社して半年も過ぎると会社生活にも慣れて、少し余裕が出てきた。
 10月のある日、それまで実際には見たことがない太極拳というものを見るだけでもと思い、武道館に行ってみることにした。同期の一人が行ってみたいというので、連れ立って出かけた。
 半蔵門から千鳥ヶ淵をめぐって北の丸公園へ。武道館の左端の方に下への階段があって、そこを降りると小さな柔道場があった。

 戸を開けると、10人から20人ぐらいの男女がゆっくりと蠢いている。初めて見る光景でこれが太極拳なんだという感じだったが、ふと横の同僚を見ると、不気味なものを見たような青い顔で「おれ帰る」と言うなりそそくさと帰っていった。
 長谷川さんという年嵩の女性が「ちょっとやってみる?」というので上がり込み、やってみると何とかできそうなので、そのまま入会することになった。
 みな思い思いの服装で、ジャージの人もいれば普通の洋服の人もいる。とりあえず裸足でやってみたが、「太極拳は靴を履いてやるものだ」そうで、畳なのに運動靴でやっている人が多い。中に白足袋でやっている人が印象的で、長谷川さんに聞いたら「品川さん、日本舞踊やってるのよ」ということだった。

 その時やっていたのは簡化24式太極拳といった。楊式太極拳を簡単にしたものらしい。式というのは技を数える単位だと教わった。

 会の名前は「日本太極拳協会」と言うことだった。この会はだいぶ昔に解散しており、現在ネットで検索するとヒットする同じ名前の団体とは、全く別物である。日本に大陸の太極拳を持ち込んだ、歴史的な団体ではある。

 教えている人が何人かいて、指導員と言うようだ。中野晴美氏が中心のようだった。その時いたかどうか定かでないが、運営のトップは専務理事の三浦英夫氏、その時分の会長は誰なのかは興味がなく知ろうともしなかった。その後は古井喜実氏や園田直氏が務めている。健康運動ということで、厚生大臣と関係があるということもあろうが、古井氏は日中友好に貢献したいわゆる「井戸掘り人」の一人である。

 協会では、先生に教えてもらうというより先輩に習う感じで堅苦しくなく、上下の区別とか先輩後輩とかうるさくないのが、私には心地良かった。呼び方も、三浦さん中野さんで、誰も先生とは呼んでいなかった。いや三浦先生はあったかもしれない。

 これが1974年秋のことである。いよいよ私の太極拳生活が始まった。
 次回は協会についてのあれこれ。

 

2020年5月 9日 (土)

【私の武術慢歩】 松涛会空手を見る

 小学・中学・高校・大学と、運動部の経験が一切ない。ずっと文化部で通してきた。武術・武道との関りはほとんどない。

 生まれた時から虚弱で、産婆さんが「この子は4歳まで生きられない」と言ったそうだ。しょっちゅうカゼだ気管支炎だ肺炎だと、母親におぶさっての医者通いだった。家族も過保護で、着ぶくれしてあまり外にも遊びに行かなかった。

 小学校に上がって、昼休みになると他のみんなは食事もそこそこにいなくなる。こちらは弁当を食べるのが遅いので(昔の田舎では給食がなかった)、教室にポツンと取り残される。
 ある日の昼休み、校内をうろうろしていて体育館に行くと、みんな走り回って遊んでいるではないか。なるほど昼休みは遊ぶものなのだと分かり、少しずつ混じって体を動かすうちに、運動すると体が暖かくなるということを学んだ。
 
 小学校の校庭の隅に、盛り土して四方柱に屋根を乗せた立派な土俵があった。毎年そこで相撲大会が行われたが、そもそも勝とうとか思っていないが投げられれば痛いし、体を固くして投げられないようにしていたと思う。

 大相撲は若乃花、栃錦の時代だったと思う。まだ家にテレビが無かったので、ラジオで聞くか他所の家にテレビを見せてもらいに行くかだった。まあ面白かった。
 プロレスもみんな結構好きなようだったが、私はあまり好きではなく、友達の話を聞いているぐらいだった。
 
 中学校では冬になると格技の授業があった。剣道をやる学校もあったのかもしれないが、そこでは柔道だった。秋田県の豪雪地帯で、古い体育館の戸の隙間から雪が吹き込んで、積もっている中で畳を敷いて授業をする。寒くてたまらないし足の裏は冷たくて感覚がなくなる。
 運動神経がよろしくないので体育はあまり好きではなく、球技などはからきしだが、マット運動、跳び箱や柔道はそんなに嫌いではなかった。
 筋力がないので担ぎ技など到底無理で、専ら出足払いとか送り足払いとか、力の要らないことばかりやっていた。体落としや支え釣り込み足(たしかヘーシンクの得意技ではなかったか?)は、やろうと思ったがうまくできなかった。

 一度だけ柔道が役に立ったと思ったことがある。理科の授業の準備を当番がするのだが、その時私が当番で大きなガラスの水槽に水を入れて理科室に運ぶ役目だった。
 真冬で水場の簀の子に水が垂れたのが重なって凍り付き、ズルズルに滑りやすくなっており、ツルっと滑って仰向けに転んだ。とっさに後ろ受け身の要領で頭を持ち上げ、水槽を腹の上で水平に抱えて事なきを得た。

 高校でも二年生の頃だと思うが柔道の授業があった。何を教えてくれるわけでもなく、仰向けに並べて寝かせ、足と頭を持ち上げさせて、体重80kg超の体育教師が牛若丸の八艘跳びよろしく踏みつけて行くだけで、くだらない授業だった。

 

 空手を初めて見たのは大学に入ってからである。

 新潟大学は新潟市内・西大畑キャンパスから市郊外の五十嵐浜に移転し、私たちが新キャンパス一期生である。
 新しい校舎はあちこちに砂が吹き溜まっていて、外ももちろん砂だらけ。昼休みになると、地面に砂が溜まったのか、もともと砂場として作られたのか分からないような場所で、空手部が稽古を始める。
 砂に足を取られながら、低い姿勢で走りこむように体を伸ばして拳を出していくのだが、疲れ切ってヘロヘロになっている。
 自分にできるとも思わないし、やる気もさらさら無く、全く関係ない世界としてぼんやり見ているだけだった。

 工学部は専門課程が長岡市にあって、五十嵐キャンパスの一年半の教養課程の後そちらに移る。校舎は旧長岡高専の古い木造で、ボロボロの長屋のようだった。私が卒業して何年かして、五十嵐に統合される。

 ちょうど『燃えよドラゴン』のころだったと思うが、ゼミで卒業研究にとりかかっていて、相棒が空手部のキャプテンだった。ちょうど武術に興味を持ち始めていたころなので、いろんな話を聞いた。

 今は違うようだが、その頃の新潟大学空手部は松涛会という空手で、私が聞きかじって名前だけ知っていた松濤館流とは違う、ということだった。新入生時代に目にした空手も同じだったらしい。

 私には何の知識もなく聞いているだけだった。彼らは青木先生という人から習っているらしく、いろいろ話してくれた。その人が後に新体道を創始する青木宏之氏だと知るのはもっと後のことである。ひょっとしたら新体道はもうできていたのかもしれないが、新体道という言葉をそこで聞いた覚えはない。
 ある日、彼が「本部から人が来て演武会をする」というので見に行った。何人いたのか結構な人数だったと思う。
 「栄光」というのは覚えている。「天真五相」はあったかどうか定かでない。何にせよそれまでイメージしていた空手とはちょっと違う感じがした。

 おそらくそのころ松涛会の師範は江上茂先生で、青木先生は師範代だったのではないかと思う。名著と聞いていた江上茂著『空手道入門』は久しく絶版になっていたが、最近『新装増補版 空手道入門』として復刻された。

 そのころは空手は痛くてキツそうだし、見た目がラクそうなので(失礼)「もしやるなら太極拳か合気道かな」と考えていて、後に新体道と少しでも接点ができるとは思いもよらなかった。
 
 そうこうしているうちに卒業である。就職は東京の会社に決まった。新しい生活はどうなるのか。武術のことなど頭の片隅にもなかった。

 次回はいよいよ東京で太極拳に出会う。


2020年5月 2日 (土)

【私の武術慢歩】『燃えよドラゴン』と『精説 太極拳技法』

 中国武術に出会うきっかけは人それぞれで、世代によって違うようだ。

 マンガなら『拳児』や『男組』でこの世界に入った人は多いだろう。映画ならブルース・リーやジャッキー・チェンのカンフー映画。もうちょっと新しいところでは『少林寺』とか。
 今の若い人たちならインターネットでどんな情報でも手にできるだろうから、そこからなんだろうか。 

 映画『燃えよドラゴン』の封切りは1973年であるらしい。
 マンガ『男組』は1974年から1979年、マンガ『拳児』が1988年から1992年の連載ということである。ちなみにどちらも私は少年サンデーでリアルタイムで読んでいた。

 私の場合は『燃えよドラゴン』が中国武術に興味を持つ始まりだったと思う。そのころ私は学生で、新潟県長岡市にいた。

 『燃えよドラゴン』は二回見た記憶がある。一回は一人で。もう一回は友人に誘われて、友人とその彼女、そのまた友達とダブル・デートみたいな恰好だった。余談だが、友人たちは卒業後に結婚したが、私ともう一人はさっぱり何事もなかった。

 それまで格闘系の映画はチャンバラか柔道、たまに空手が出てくるぐらいで、『燃えよドラゴン』は見たことのない新しい世界だった。

 興味を惹かれてもう少し知りたいと思っても、当時は東京ならいざ知らず、田舎町では中国武術を知る手立てはほとんどない。何か本でもあるかなと立ち寄った書店で見つけたのが、『精説 太極拳技法』だった。

 原著 楊澄甫、編著 笠尾恭二、発行所 中国武術研究会、発売元 東京書店となっている。若いころは購入日を本に書いていて、それを見ると1973,11,20となっている、一方発行日は昭和48年11月25日。発行日より早く書店に並ぶのは珍しいことでもないんだろうか。
 この時、笠尾楊柳(恭二)先生は34歳というこことになる。この本の中に精悍な若い笠尾先生を見ることができる。

 他には、佐藤金兵衛著『中国秘拳 太極拳』(愛隆堂)も買い求めたが、残念ながら今手元に無い。

 本を見ても動きが分かるわけもなく、ただ太極拳がゆっくり動くということぐらいしか分からない。教えてくれるところもある訳がないし、他に知る手立てもない。
 他に学内のサークルや学外でもやることはあったので、卒業するまで想像しているだけで、何をすることもなかった。

 次回は実際に太極拳に出会う前までの話を。

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