5.後藤先生のブログ

2023年7月18日 (火)

【私の武術慢歩】 軽功の話

 前出「孫剣雲老師との再会 その三」で、軽功の話を少し書いた。
 「その他の軽功(軽身功)の話はまた後で紹介しよう。」と書いたが果たせていなかったので、ここで紹介する。まず前出の話をおさらいする。

 1981年冬、孫剣雲老師と再会し、形意拳を習った時、練習の合間に軽功の初歩を教わった。
 テーブルの前に立って、両手をテーブルにつき両足で跳び乗り、すぐ後ろ向きに跳び降りる。これを繰り返す。
 慣れてきたら両手をテーブルにつかないで、同様にする。単純だが効果的な練習だと思う。

 昨年だったかテレビの番組で、スキージャンプ・男子の小林陵侑選手の練習風景が少し映ったが、胸ぐらいの高さの台に両足で踏み切って跳び乗り、すぐ後ろ向きに跳び降りるという、まったく同じ練習をやっていた。

 また長椅子の下を縦にくぐった話や、炮拳の最初の2歩で八メートル跳んだ話も書いた。


 ここから新しい話になる。ほとんどは稽古の合間に、剣雲老師から聞いた話だ。


 禄堂先生の道場での練習風景も教えてもらった。
 戸板よりもかなり大きくて厚い木の板を壁に立てかけて、そこを駆け上り、後ろ向きのまま跳んで降りる、というものだ。
 そして練度によって立てかける角度をだんだん急にしていく。最終的には垂直の壁を駆け上ることを目指す。
 大勢の弟子たちがこの練習をしているのは壮観だったろうと思う。

 剣雲老師の次兄(禄堂先生の二男)の存周先生は、垂直の壁を数歩駆け上ることができた。降りるのは後ろ向きである。
 禄堂先生は駆け上った後、クルリと後ろ向きになり背中を壁にピッタリ着けてしばらく留まり(一説に二分間ほど)、その後ツーッと滑り降りてきたそうだ。
 これを”壁上挂画”とか”挂壁”とか言うそうである(挂は掛と同じ)。


 禄堂先生の軽功に関する逸話はいろいろある。

 郭雲深先生に従って旅をしていた時、郭雲深先生は騎馬で禄堂先生はその後ろを走っていた。
 剣雲老師はこう言っていた。
 「世間では老先生(禄堂先生のこと)が馬の尻尾を掴んで走ったと言われているが、それは違う。
 腕を体の前に水平に出し、その上に尻尾を垂らして、落とさないように走ったんだ」

 この話には別バージョンがあって、走っていて疲れたら、馬の背の郭雲深先生の後ろに跳び乗って、気配に気づきそうになったら降りてまた走る、というものだ。
 この話は剣雲老師からは聞いていない。

 河北省で、軽功を使う盗賊が跋扈していて、一向に捕まらなかった。警察に追われると、高粱畑の穂の上に跳びのって走って逃げる。警察は下をかき分けながらなので追いつけない。高粱は雑穀で、白酒の原料にも使われる。かなり背が高く、3mぐらいになることもあるらしい。
 禄堂先生が捕縛を依頼されて赴き、盗賊が現れて追いかけると、やはり高粱の上に飛び乗って走る。禄堂先生も跳び乗って追いかけ、捕まえた。
 この話は当時の新聞にも載ったということだ。

 地方政府の幹部に宴席に招かれた時、余興に何かやってくれと言われた。とても失礼なことであるが、ことを荒立てないように「では」と言って、「壁に体の側面をぴったり着けて、反対側の腿を水平に上げる」ということをやった。
 皆はどういうことが分からず首を捻っているので、「では、できるかどうかやってみてください」と言う。やってみても誰一人できなかった。
 剣雲老師は、これができた人は禄堂先生以外見たことがない、と言っていた。もちろん私もできない。
 昔、『武藝』だったか武術雑誌のインタビューで紹介したことがある。「こんな感じ」と似た姿勢を写真に撮った。これはどんなものか紹介するために軸足を壁から少し離しているのでインチキである。最近「できるでしょ」と言われたことがあるのではっきりさせておきたい。できません。

 禄堂先生は走るのが早く、長距離を走り続けても疲れなかった。
 頭に被る笠を胸に当てて、落ちないように走った、と剣雲老師は言う。
 北京天津間を日帰りで駆けとおしたりは普通だった。

 他にもあったはずだが、とりあえずこのぐらいにしておこう。

 

2023年5月10日 (水)

【私の武術慢歩】 六四

 この後、毎年北京を訪れて稽古していた。日本孫氏太極拳研究会の単独訪中で、会員数人を連れて行っていた。
 だが、1989年だけは行かなかった。
 なお、この稿は武術に関係しないので、興味のない方は読み飛ばしていただきたい。


 今までで一番短いタイトルの「六四(リウスー)」はまた「八九六四(バージウリウスー)」とも言う。
 1989年6月4日、天安門事件である。
 「毛沢東って、歴史の教科書で見たことがあるかも」とか、「四人組」(四人帮)と聞いて「Official髭男dism?それとも緑黄色社会?ももクロじゃないよね?」とか言う若い人には分からないかもしれない。

 失脚しその後死去した改革派の胡耀邦元総書記を追悼するため、学生や市民が天安門広場に終結。これが全国的な民主化運動に発展していくところを、人民解放軍が武力で鎮圧した事件である。
 天安門広場に戦車が出動してデモ隊と衝突する(蹴散らす)様子は、日本でもTVなどで報道され、衝撃を与えた。発砲があり市街戦もあったようで、死者も大勢出たはずだが公表されていない。

 改革開放政策を主導した鄧小平が弾圧を指揮したというのが皮肉に思える。彼が可愛がっていた民主化運動に同情的だった趙紫陽も、如何ともし難いことだった。


 夏~秋の訪中準備を始めようかという矢先の出来事で、情勢を鑑みて今年は訪中を止めようということになった。

 翌1990年の訪中時に天安門広場に行ってみた。
 国内国外の観光客が多く何事もなかったようだったが、足元を見ると戦車のキャタピラの痕や弾痕があちこちにある。生々しい様子に注意を向ける人は他にはいなさそうだ。
 その翌年に行った際にはそれらの痕もきれいに無くなっていた。
 現在の中国では、この事件は無かったことにされているようだが...。

 野次馬な友人が事件のときに天安門広場に見に行ったという話を後で聞いた。物陰に隠れて覗いていたらしいが、弾丸のヒュンヒュンかすめる音が聞こえたそうだ。

 弾丸の音と言えば、昔父親に聞いたことがある。
 「ヒュンヒュン音がするうちはまだ遠い。至近距離だとバスッ、バスッという音がする」のだそうだ。

 わたしの父親は戦争の時に北方も南方も行ったようである。京都人なら「先の戦」は応仁の乱らしいが、ここではもちろん第二次世界大戦である。
 父はあまり戦争中の話はしなかったが、たまにするのは良い話ばかりで辛かった話・悲惨な話は全然してくれなかった。今思うともっといろいろ聞いておけばよかった。
 父は大工で、工兵隊で招集されたので前線での戦闘体験は無かったはずだ。弾の音もたぶん軍隊で聞いた話だったのではないだろうか。

 明治生まれの父親もこの年、昭和天皇崩御の二カ月半後ぐらいに亡くなった。
 美空ひばりが亡くなったのは「六四」の二十日後だ。

 日本は元号が平成に変わり、バブルの真っ最中。消費税が施行され、任天堂のゲームボーイが発売された。
 ヨーロッパではベルリンの壁が崩壊した年でもあった。
 何とも時代を感じることではある。


 六月が近づいたところで無駄話をしてしまった。
 もちろん「全部無駄話じゃないか」は禁句である。
 

 

2023年4月20日 (木)

【私の武術慢歩】 夜行列車で上海へ

 稽古は到着日以外は毎日欠かさず行っていた。太極拳、形意拳、八卦拳の細かいチェックが中心である。

 老師は「孫家拳はすべて教えた」と言っていたのだが、五日目の拝師の日の午前中に、師姐(姉弟子)の付淑元に「後藤に双刀を教えろ」と命じた。

 半日かけて覚えた後に、老師に「これは形意拳の双刀ですか」と聞いたら、
 「いや、少林拳のだ」
 どうも、私が遠い日本から来ているので、何か新しいものを教えなければ、と思っていたらしい。
 私は孫家拳以外はあまり興味がないので、
 「老師の顔を見て、孫家拳をチェックしていただければそれで良いのです」と言ったら、
 「そうか、そうか」と納得していた。ちょっと嬉しそうだった。

 稽古の合間に筆談を交えて話していた時に、次のように書いてくれた。

 「日本で孫家拳を練習するにあたって、お前たち二人は「人材」だ。正しい方法に則って練習し、暴力を求めたり、内家拳に不必要な動作(圧腿、負荷をかけること)をしないよう望む」
 「孫老先生(禄堂公のこと)の体は外見は弱そうに見えるが、いったん動けば若く力の強い者でも手を出すことはできなかった」

 
 9月21日、練拳後に老師宅で昼食をごちそうになり、夕方北京駅から夜行寝台列車で上海へ向かう。
 雷慕尼老師と剣雲老師が、駅まで見送りに来てくれた。他にも数人いて、私が履いていた藍染の綿パン(Gパンではない)を指して、
 「そのズボンは中国で買ったんだろう」と言うので、
 「いや、日本の浅草で買った日本製だよ」
 と答えても全然信じてもらえなかった。確かにそれっぽい感じだけれど。

 老師たちに「また来年来ます」と言って別れた。

 中国の列車の種類については「長春の活動」でも書いたとおり、硬座、軟座、硬臥、軟臥と4種類ある。
 今回は二段ベッドが2台の寝台列車で、部屋はコンパートメントでドアがあり(後に硬臥に乗ったとき、ドアが無かったと思う)、窓が大きく眺めが良い。
 暗くなってきて出発し、しばらくすると荒野が広がっている。煌々と十八夜の月が薄(すすき)の野原を照らして昼のようだ。
 「この辺が盧溝橋」
 と栗田さんが教えてくれた。

 1937年7月7日夜の盧溝橋。民国軍が演習中の日本軍に発砲した後、一人の日本兵がいなくなった。これが日中戦争(支那事変)の発端となる。いなくなった日本兵はただトイレに行っていただけだった、という話もある。

 スピードを上げた列車は時々カーブで大きな横Gを感じさせながら荒野を突き進む。外を眺めているうちに寝息が聞こえてきた。

 早朝上海に着く。
 今回は武術関係のことは何もなく、単なる観光だ。今テレビで見る上海とは大違いでまだ素朴な感じがある。レストランで食事して漢方薬など見る。

 ただ、例によってホテルで「中国人は入るな」と止められた。中国製に間違えられるズボンのせいか?
 誤解は解いたが空室が無く、近くのドミトリーに泊まった。薄いマットが敷いてある金網の簡易ベッドがズラリと並んでいる。初体験だ。

 他に特筆すべきこともなく、長崎経由成田行きの飛行機で帰路に就いた。
 機内で「正式に拝師弟子になって、私の孫家拳第二章が始まったのだ」としみじみ感じたのだった。

 

2023年4月10日 (月)

【私の武術慢歩】 拝師する

 1985年は孫剣雲老師来日のため訪中はせず、翌1986年9月に二年ぶりの訪中となった。
 日程は9月10日から21日まで北京、その後上海で遊んで23日に帰国と言うものだ。二週間の休暇は会社勤めの身としてはなかなかのものである。

 今回のメンバーは富田さんと栗田さんに私と妻の四人。富田さんと栗田さんは北京で合流となる。二人とも北京に留学した経験があるので、頼りがいがある。
 富田さんと私は孫家拳、栗田さんと私の妻は雷慕似尼老師に陳式太極拳を習う。

 訪中しなかった二年の間に、剣雲老師に大きな変化があった。それは郊外の団地に部屋をもらえたことである。それまでは「部屋がスーミーチ(四平米)しかないからお前たちを招くことができない」と言っていたが、老師のお宅にお邪魔できることになったのだ。

 北京空港には老師や劉師兄が迎えに出てくれていて、そのまま老師宅に行って晩御飯をごちそうになった。

 老師のお宅は安外安貞西里にある団地の二階にあった。

 北京は故宮を中心にして環状道路に何重にも囲まれており、内側から二環路、三環路と言うふうに呼ぶ。一環路はあまり聞かないがどうなっているのだろう。
 当時三環路の外は十分郊外と呼べる場所で、四環路もだいぶ後から整備されたはずだ。今は北京市も市街地が膨張して七環路ぐらいまであるはずである。
 安貞西里は三環路の北側の外(さらに北)にある。現在もう少し北上して四環路を越えるとオリンピック村(と言うのかな?)がある。

 老師のお宅のそばに大きな公園があり、そこで練拳する。陳式太極拳の二人は他の公園に行って雷老師に習う。

 ほとんど毎日昼食か夕食、時には両方とも老師宅でごちそうになった。
 毎日老師の弟子たちが入れ替わりやってくる。
 劉樹春、張振華、金継香、金継宏、王鉄漢、于季方、雷世泰、付淑元、孫永田、藏玉和などなど。孫庚辛は老師の身内、祖父が禄堂先生の弟子である陳小鳳は老師の世話をしてくれていて、この二人は厳密には弟子とは言えないが実質的には弟子同然というところか。

 9月14日、老師の弟子が自分の弟子を取るという話があり、「お前も拝師するか?」と聞かれ、即「お願いします」と答えた。
 拝師するのは富田さんと私の二人で、他のメンバーも立ち会って午後から拝師式を行った。
 
 老師はあまり古いしきたりにはこだわらない人で、拝師式はかなり簡略化したものだった。外国人なので配慮してくれた面が多々ありそうだ。
 私は拝師式がどういうものか全く知らないので、老師の言うとおりにしていただけである。

 テーブルに老師のご両親の写真(普段から飾ってある)、その前に果物やお菓子を供えている。
 拝師の誓いを書いたような赤い紙が供えてあり、拝師帖と言うらしい。老師が作っておいてくれたようだ。
 拝師する弟子の三代前まで遡って記入するのだが省略するとのこと。保証人の所には劉樹春の名前を入れたそうだ。
 先ず跪いて禄堂先生ご夫妻の写真に向かって三叩頭し、次に剣雲老師に向かって三叩頭するのだが、
 「お前たちは外国人だから立ったままで良い」と言われた。

 これで正式な弟子になったわけである。

 拝師した師のことは「師父」と呼ぶらしい。女性でも「師父」で良いのかと疑問に思っていたが、男女関係なく「師父」で良いらしい。
 とはいえ兄弟弟子たちも皆「老師、孫老師」と呼んでいるので、引き続きそのように呼ぶことにした。
 ちなみに禄堂先生のことは皆「ラオシエンション(老先生)」と呼ぶのが普通のようだった。親しみがこもっている感じだ。

 その後どこだったか忘れたが出かけて、宴会となった。
 弟子をとった兄弟子やほかの兄弟子たちが集って、結構な人数になった。
 まず剣雲老師の講話があって、その後宴会となり湖南料理が出た。

 湖南省は毛沢東の出身地である。

 剣雲老師によると湖南料理は四川料理よりも辛いそうで、湖南人は、
 「ブーパーラー(不怕辣)、ラーブーパーパー(不怕辣)、ブーラー(怕不辣)」だそうだ。
 「辛さを恐れず、辛くとも恐れず、辛くないことを恐れる」と言うことだと。

 これは四川人、湖南人、貴州人それぞれに当てた言葉だという説もあり、順番が別だという説もあるらしい。
 湖南料理は辛さに酸味も加わっており、このところ流行っているように思える酸辣湯は湖南料理がルーツと聞いたことがある。

 37年前のことで、場面のいくつかは思い浮かぶが、料理の味は覚えていない。老師が「辛いからあまり一杯食べるなよ」と配慮してくれた記憶がある。

 拝師弟子となったが、その後あまり変わったところもなく、以前から拝師弟子と同じ(またはそれ以上の)扱いをしてもらっていたと再認識したことである。
 ともあれ拝師式は割とあっさり終わったのであった。

 

2023年1月 7日 (土)

2023年 新春のご挨拶

皆さま、明けましておめでとうございます。


遅くなりましたが、松の内ギリギリということでご勘弁を。


新型コロナもようやく出口が見え始めたかな、という今日この頃。

昨年11月には3年ぶりの一日練習会を開催することができました。

今年はもう少し活動を増やしていけると思います。

とりあえず、3月の社教館祭りに参加します。ご協力のほど、お願いします。

 

今年は孫禄堂公没後90周年、孫剣雲老師没後20周年、日本孫式太極拳研究会創立40周年に当たります。

何かできるかはまだ分かりませんが、節目に当たって気を引き締めていきたいと思います。


行動規制がかからなくなり、リスク回避や免疫強化は個人の心がけにかかっています。

「空白の3年間」とならないよう、しっかり稽古してまいりましょう。

 

  後藤英二

 

2022年12月 8日 (木)

【私の武術慢歩】 老師来日その後

 老師来日の一カ月は、あっという間に過ぎた。

 日本の中国武術界にも結構インパクトがあったようで、この前後に中国武術専門誌に孫禄堂・孫剣雲の記事がいくつか掲載された。

 その名も『中国武術』という雑誌に「「活猴」(いきざる)孫禄堂物語(ストーリー)」志宇・作、第1話~第6話(1985年7月号から同年12月号まで)が連載された。

 第5話の後には、「孫禄堂の直系二代目 孫剣雲老師が初来日」という記事もついている。

 同誌1986年1月号には「孫氏太極拳の直系二代目 孫剣雲老師を北京に訪ねる」(取材/孫静敏)という記事が載った。

 また『武術(うーしゅう)』1986年1月号には「孫禄堂の娘 孫剣雲が来日」という紹介記事、同誌の3月号と4月号には「孫剣雲、実父・孫禄堂を語る」前編と後編が載った。この中にはインタビューの他に、三体式と形意八式拳が老師の写真入りで解説されている。


 日本孫式太極拳研究会にも雑誌を見て入会者がチラホラ現れるようになり、少しずつ会員が増えていった。

 鎌倉の太極拳研究会に指導で行くようになったりもした。

 しかしやはりメインは自分の練習ということには変わりなかった。


 翌年からまた北京通いが再開する。孫家拳との関わりもまた新しい段階を迎えるのである。


 下の写真、上は『武術(うーしゅう)』1986年1月号、下は同誌同年3月号。今では考えられないが、昔は連絡先の住所を堂々と出していた。インターネットや携帯電話が普及する前なので、当たり前と思っていた。



 〇『武術(うーしゅう)』1986年1月号より 

   

 

 

  • 〇『武術(うーしゅう)』1986年3月号より

 

 

2022年11月22日 (火)

【私の武術慢歩】 孫剣雲老師の講演大意

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 以下は孫剣雲老師の講演内容を栗田益実氏が訳し、後藤がまとめたものである。


◆◇◆◇◆◇

 今日、私は東京の武術愛好者の皆様にお会いでき、大変うれしく思います。

 今回、東京を訪れることができたのは、私の学生である日本孫式太極拳研究会会長・後藤英二君、そして多くの拳友達が招いてくださったからです。

 時間がたつのは早いもので、日本に来てすでに三週間が過ぎました。この間、毎日拳友のみなさんと孫家拳を研究してきました。

 今日ここで私は学生達と一緒に表演し、皆様にご覧になっていただきます。私は今年七二歳になりますが、どうぞよろしくお願い致します。

 さて表演の前に、これから孫氏太極拳の源流と父の経歴について簡単にお話ししたいと思います。


●孫氏太極拳の源流について

 父、孫禄堂は幼少のころ李奎元先生について形意拳を学びましたが、実際には後に郭雲深先生について学びました。三十歳すぎには北京へ出て程廷華先生に八卦掌を、五十歳ごろ郝為真先生について郝氏太極拳を学びました。これは現在武式太極拳と呼ばれているものです。

 父は生涯の精力を形意、八卦、太極拳の研究にそそぎ、融合貫通し、孫氏太極拳を創りあげました。

 孫氏太極拳は形意、八卦、太極拳の長所を集めたものです。それは形意の三体式、八卦の円滑で敏捷な身法、太極の柔らかさです。

 特徴として、前に進むときは必ず跟歩し、後ろに退くときは必ず撤歩します。左右に転身するときは両手の開手、合手で動作をつなげます。このような特徴から、またの名を活歩開合太極拳と呼ばれます。

 要求としては、始めから終わりまで両膝は少し曲げ、行雲流水のごとく綿綿不断であることが第一に挙げられます。


●孫氏太極拳の練習法について

 太極拳の套路は掤、捋、擠、按、采、挒、肘、靠の八種の手法、および進、退、顧、盼、定、四正四隅などの歩法で形成されています。これらの動作をしっかり理解して練習しなければなりません。

 また孫氏太極拳には独自の風格があります。他流派の太極拳にも同じように独自の風格がありますが、これらは区別して練習しなければなりません。


●孫氏太極拳の規範について

 孫氏太極拳の規範に関しては、父の教えを思い出し、また私自身の体得したものを加えて、いくつかの点について述べます。

 中正、平穏、ゆったりとして柔和であり、跳躍などの動作はありません。全套路を練習するとき、始めから終わりまで動作は一気呵成、呼吸は自然で、全身を一致させ、俯いたり反り返ったり、左右に偏ったりしてはいけません。

 沈肩、墜肘、含胸、鬆肩、鬆腰、鬆胯、虚実分明、上下相随、用意不用力、動中求静、呼吸は自然にします。


●套路を練習するときの三つの段階について

 第一段階は、無図に沈んで水の抵抗を受けて全身が不自由な感じです。ちょうど泳げない人が水底に沈んでもがいているようです。

 第二段階は、学び始めの時と感覚はあまり変わらないが、水底から離れ、水中に浮かび、手は自由に使える。つまり泳げる状態です。

 第三段階は、水面に出て、身体は軽快で水面を歩くようです。しかし意識を少しでも散乱すると沈んでしまうので、精神を集中させ、全身のバランスを取らねばなりません。

 このように、それぞれの段階がありますが、数年間しっかり練習すれば、必ず一定の功夫が得られるでしょう。

◆◇◆◇◆◇

 

2022年11月16日 (水)

【私の武術慢歩】 孫剣雲老師の日本での活動

 孫剣雲老師と劉樹春師兄の宿舎は、西小山のウィークリー・マンションを借り、富田、浦山、新島、波形、私の五名の誰かが居るように計画した。

 来日翌日は歓迎会、その日を含めて四日間の練習があった。今まで習ったことのチェックの他、新しいこととして孫式太極拳簡化套路(三十五式)を学んだ。

 孫式太極拳簡化套路(三十五式)は剣雲老師が編集したもので、先に中国の武術雑誌『武術健身』に発表されていた。

 老師が我々に教えているうちに、

「第十九式 倒撵猴と第二十式 左搂膝拗步の間に手挥琵琶、白鹤亮翅、开合の三式を足して三十八式にした方がつながりが良い」

 と老師自ら言い出して、以後そのように変更して教授していた。その後大阪で教えた時も同様だった。

 この套路は後に孫剣雲著『孫式太極拳詮真』に収録されたが、そこには三十五式で載っている。孫式太極拳の套路を集めた時に、雑誌の記事をベースにしたものと思われる。

 三十五式にしても三十八式にしても大同小異で、本質には影響はない。日本では伝わったまま三十八式で通している。


 この間に近所の神社のお祭りに遭遇したのも懐かしい思い出である。
 
 六日目の9月19日から22日まで剣雲老師、劉師兄と私の三人で大阪・京都へ行った。

 東京では陳式太極拳をやっている仲間の栗田益実さんが通訳をやってくれて大いに助かっていたが、大阪・京都では私がその役目を負わなければならない。

 スーツを着て日中辞典を小脇に抱えて二人につき随っている様子は、聖書を抱えた宣教師みたいだ、と自分で思ってしまったのだった。
 

 大阪での講習会では老師が主に三十八式簡化套路を教授した。

 
 観光は大阪城とか平安神宮などに行ったはずだ。


 9月27日から29日までは、埼玉県の国際婦人教育会館(現在は国際女性教育会館)で合宿をした。

 体育館で剣雲老師の套路や劉師兄と私の安身炮などを撮った8mm フィルムかビデオがあるが、そこで撮ったものである。

 三日間まとまった練習ができて充実した合宿だった。

 劉さんと雑談しているときに、彼が八極拳の人と戦った話をしてくれたのが記憶に残っている。

 劉さんはいつも冷静沈着なのだが、激しい気性も秘めているのかと感じたことだった。


 10月4日には日帰りで箱根に行っている。

 中国人は日本に来るとなぜか箱根に行きたがる。なぜかと思ったら、魯迅が箱根温泉に行って芦ノ湖から富士山を眺めた文章があるからのようだ。

 当日はあまりくっきりとは富士山が見えなかったのは残念だった。それでもちょっと雲の切れ目から顏を出したというのは私の記憶違いかもしれない。


 10月6日は千駄ヶ谷の区民会館で、「孫剣雲来日記念 講演・表演会」を開催した。

 次回はこの時の剣雲老師の講演の大意を書こうと思う。。

 老師の講演、表演、劉師兄と我々の表演があって、会は成功裏に終わった。ここでも栗田さんに通訳をお願いした。改めて感謝したい。


 前後して福昌堂からの取材を受けた。中国武術専門誌『武術(うーしゅう)』の記事にするためである。この雑誌の確か編集長だったと思うが、生島さんが何回も足を運んでくれた(記憶違いならすみません)。

 
 老師や皆さんに拙宅にお出でいただいたこともある。

 その時かどうか定かでないが、餃子を皆で作ることになって、剣雲老師が餡を作ったのだが、中華鍋の前で両手でお玉を持ってかき混ぜる様子は、姿勢と言い動きと言い正に武術の達人の姿であった。

 

 本当なら私がひと月仕事を休んでお世話をするべきだったが、日本の企業でそれは許されることではなく、老師と師兄に不便をおかけしたことは悔いの残る所である。

 ともあれ大過なく、10月13日のJAL781便でお二人は帰国の途に就いたのだった。

 

2022年11月 8日 (火)

【私の武術慢歩】 孫剣雲老師の来日

 1985年、孫剣雲老師を日本に招聘することになった。

 この年は老師が来日するので、私の訪中はお休みとした。
 私の妻は雷老師に習うために8月に北京に行った。

 日本孫氏太極拳研究会は会員も少なく金もないので、太極拳練神会と合同で呼ぶことにして準備が始まった。

 ビザの発行やら何やらで、外務省には何回か行った。
 ビザの発行に必要な書類として以下を用意し、外務大臣あて申請する。当時の外務大臣は安倍晋太郎だった。
 (1) 入国理由書
 (2) 身元保証書
 (3) 氏名・写真
 (4) 滞在日程表

 身元保証書では以下を保証しなければならない。
 (1) 滞在費・往復旅費の負担(身元引受人として、私の収入証明書まで提出したように記憶している)
 (2) 滞在中の日本国法令の遵守
 (3) 要請があった場合の関係省庁への遅滞なき報告
 (4) 滞在日程の変更ある場合その都度報告
 (5) 入国目的以外の活動を行わせないこと
 (6) 滞在期間内に出国させること

 これを見れば、日本国として何を心配しているかが分かる。

 いっぽう孫剣雲老師の方でも、体育委員会か武術協会から「必ず帰ってくるよね?」と念押しされたらしい。
 中国にとって重要人物が亡命するのは最もまずいことであろう。

 剣雲老師が誰を帯同するかについて、最初は黄万祥の名前が出たそうだ。彼は江蘇省の人で私には兄弟子に当たる。会ったことはない。
 北京孫式太極拳研究会の副会長にも名を連ねている。
 剣雲老師が言うには、彼は功夫が高く、孫家拳は皆出来るが特に八卦掌が得意であると。
 しかしいろいろあって立ち消えになった。

 結局私が最もよく知る劉樹春師兄が来ることになり、嬉しいことであった。彼は当時、北京孫式太極拳研究会の常務理事だった。


 日程は9月14日(土)から10月13日(日)の30日間となった。
 宿舎などの準備は、当会事務局長の富田さんや太極拳練神会の三人娘(浦山、新島、波形の三氏)が中心でよくやってくれ、ありがたいことであった。 

 この年は8月に日航機墜落事故が起きている。他にも中華航空の急降下事故やデルタ航空、アロー航空の墜落事故など、航空機事故の多い年であった。
 老師たちの往復は何の問題もなく幸いであった。

 JAL782便で成田空港に着いた二人は元気で、劉師兄は私へのお土産として双鈎を携えていた。
 彼の友人が手作りしたとのことで、重さと言いバランスと言い申し分のないものだった。

 税関で「これは何だ?」と聞かれたらしいが、「不憧(ブードン=分からない)、不憧!」とコトバが分からないふりをしたら向こうがあきらめたとか。

 税関と言えば、私らも剣を持ち込もうとして調べられたことがある。
 木剣とアルミ合金の剣なので問題はないはずだが別室に連れていかれ、係員がホワイト・ボードに紙を貼るときの丸いマグネットを剣身にペタペタ着けている。
 磁石がくっつけば鉄製なのでアウト、つかなければセーフということなのだ。
 首を捻って今度は空港警察を連れてきたが、彼らが持っていたのはもっと小さいマグネットで笑ってしまった。
 「法律には触れないけれど、危ないものだから気を付けてください」と無罪放免となった。

 こんな経験がある人は結構多いと思う。
 刃渡りが6cmを超えると違反になるので、その長さでぶつ切りにして持ち込み、刀鍛冶にくっつけてもらったらエラク高くついた、という人もいた。
 あの手この手で鉄製の刀剣を持ち込もうとした人も多いようで、成功した人失敗した人さまざまだ。手口もいろいろ聞いたがここでは書かない。

 もう少し後のことだが、剣雲老師が「名剣をあげるから持って行きなさい」と言ってくださったが、「税関を通れないので遠慮します」と答えた。惜しいことをした。
 
 聞いた話では八卦大刀を背負って税関を通ろうとした猛者がいたらしい。当然認められないだろう。


 閑話休題が長すぎたか?続きはまた。

 

2022年10月12日 (水)

【私の武術慢歩】 全日本太極拳中国武術表演大会

 第一回全日本太極拳中国武術表演大会が1984年6月23・24日に大阪府立体育会館で開催されることになった。

 中川さんの太極拳練神会は別として、私の日本孫式太極拳研究会はできたばかりでほとんど実態はないし、江沢さんも根本さんも自分の会はまだ立ち上げていなかった。
 そこで、代々木公園に集まるグループで参加しようということになっていた。

 会の名前を付けなければという話になり、なんやかんやでひねりも何もない「代々木公園グループ」と決まった。
 反対意見の多くは、「これではホームレスの集まりみたいではないか」ということで、もっともなことであった。

 最後まで競った有力な対案は「中国武術・花とゆめ」だった。これはもちろん少女漫画雑誌『花とゆめ』からとっている・・・と思う。
 我々の世代では少女漫画読者でなくてもこの雑誌に連載された「ぼくの気球を守って」などは有名だろう。
 この雑誌が創刊されたのは1974年で私が太極拳を始めた年だ。アニメ「宇宙戦艦ヤマト」が始まった年でもある。

 私は会社の同僚がこの雑誌を読めと言って貸してくれるので、しょうがなく読んでいたので知っているのである。面白いし。
 私は「笑う大天使(ミカエル)」なんかが気にいっていた。パソコン通信Niftyの食のフォーラムでの私のハンドルネーム「食欲仙人」は同じ作者(川原泉)の「空の食欲魔人」からちょっと変えて拝借した。


 脱線がはなはだしいが、ともかく代々木公園グループとして参加の運びとなった。

 最初の頃は中国から武術老師の方々が来日されて審判をやり、エキシビションで演武していただくというパターンだった。
 第一回では沙国政老師や何福生老師らとともに、何と私の初訪中である日本太極拳協会の第二次訪中団の時に上海で指導していただいた丁金友老師が来日されたのである。丁老師のエキシビションでの演武は武当拳だった。

 大会前のパーティでは沙国政老師が「孫剣雲の弟子はお前か」という感じで話してくださった。
 丁金友老師にはホテルにお邪魔しても良いか尋ねて、快諾していただいた。

 翌日夜ホテルを訪ねると丁老師が「お前は何で出場するのか」と聞くので孫式太極剣と答えると「やってみろ」ということで指導が始まった。
 丁老師の指導は「とにかく発勁しろ」ということで、ほぼ全ての技に発勁を入れるのである。上海でも発勁をいろいろ教わった記憶がよみがえった。

 
 大会本番では根本さんが代々木公園のメンバーにメイクを施してくれた。

 私の番である。剣雲老師は発勁しろとは全然言っていないし、孫式の剣は違うんだろうなと思いながらも、目の前で審判をされているのに昨夜習ったことを無視するわけにもいかず、全編発勁入りで表演したのである。

 そうすると審判の間でも「太極剣で発勁はおかしい」という意見がだいぶ出たようで、かなり長いこと協議していた。
 結果は太極剣・刀(男子)の部で三位になった記憶がある。

 この大会の記憶は定かでなく、第一回から第何回まで出場したのかもあまり覚えていない。
 第二回は同じ大阪で行われ、私は雪片刀で出て確か四位ぐらいだったと思う。始める位置を決めるのにウロウロしたのがまずかったらしい。

 自選太極拳Bで太極王子こと遠藤靖彦さんが優勝したのが第一回である。彼は今年(2022年)『真の強さを求めて 功夫への道』を上梓しているのでご覧いただきたい。


 そのうち日本人が審判をやるようになり、判定基準もいろいろ細かくなっていったようである。

 太極拳協会からおなじみの大阪の川崎雅雄さんは、国体種目からゆくゆくはオリンピック種目にしたい、そのためにも体協に加盟しないと、と熱く語っていた。
 彼は大会のテレビ放送で解説をしていたのでご存知の方も多かろう。

 私と言えば、競技スポーツにはまったく興味が無く、孫家拳を伝統武術としてやっていくだけと考えていたので、いつか遠ざかってしまっていた。

 

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