5.後藤先生のブログ

2020年8月 1日 (土)

【私の武術慢歩】 上海での訓練

 上海到着の10月16日を初日とすると、上海二日目の17日から八日目の23日までは午前午後のどちらかを訓練に当て、もう片方を参観に当てるというスケジュールで、24日午前に帰国の途に就く。

 

 朝はだいたい6時ごろから黄浦公園などで練習をした。周元竜老師が八十八式太極拳や圧腿を指導してくださったりした。

 圧腿は、片足を台にのせて水平ぐらいにしてストレッチする。大腿・下腿の前面、後面、外側、内側と四方向を伸ばすやり方を教えてもらった。

 

 体育館での半日の訓練は、主に八十八式太極拳、三十二式太極剣、推手を練習する。小島さんは長拳基本功を中心の練習で、体力的に大変そうだった。

 

 私は丁金友老師に、みっちり指導していただく。

 八十八式太極拳は、上海の老師の方々全般に北京と雰囲気や細かいところに違いがあり、時に戸惑うこともあった。

 

 丁金友老師の動きは、脚からの力が腰の低く粘るような回転によって肩、腕、手へと、波打つように伝わっていくのが分かる。言葉が通じないので、何度も繰り返し動作を示してくださるのが、ありがたくも申し訳ない気持ちになる。

 丁金友老師からの注意は以下のようなものだった。

  • 鬆肩沈肘
  • 主宰於腰
  • 虚領頂勁
  • 上下相随
  • 気沈丹田

 知識として知ってはいてもどう体現するかは難しく、実際の動きや姿勢で指導していただけたのは貴重な体験であった。

 

 丁金友老師は、剣がかなり得意(好き)のように見うけられる。太極剣の要領として、腰(腹)の回転移動と、視線の方向が大事で、これらは太極拳動作と同じ要領であると教わった。「腰帯剣(即一動百動)であり、発於腿、主宰於腰、開於手指」であると。

 七日目には丁老師に私の太極剣を「好!」と言っていただけたのは嬉しいことだった。

 

 何日目だったか、練習の合間にベンチで休んでいると、丁老師がすぐ隣に腰かけてきた。何だろうと思う間もなく、発勁講座が始まった。

 ピッタリ体を寄せたところから丁老師が肩や肘、腰で発勁すると、私の体がポンと横に飛ぶ。いわゆる靠と言うことなのだろう。距離が無いので寸勁と言っても良いのかもしれない。

 私も真似してやってみるが、なかなかうまく勁が伝わらない。何度もやっていただき、ひとしきり試させていただいても、十分の一もできたかどうか。

 

 ここで北京と上海との違いを考え付いたのだが、北京では「太極拳は技撃(武術)ではありません」と明言されていたし、公園でやっている太極拳も制定拳しか見られなかった。老師方の表演も制定拳だけで、集体表演も教科書のように皆ピッタリと揃う。発勁など口にです感じではなく、推手でも飛ばされることなどなかった。

 しかしそれが上海では、老師方の伝統太極拳も拝見できたし、公園ではいろいろな武術や気功のようなものが見られた。もっとも公園引率の周元龍老師(前回まで周元竜老師と書いていたが、日本では周元龍老師と書くのが普通のようなので合わせることにする。もちろん中国では簡体字なのだから問題にならない)は「あれは本物ではありません」と言ってはいたが。

 周元龍老師がホテルに来てくれてロビーで推手の相手をしていただいたが、何度か回した後にポンと飛ばして後ろの太い柱にピタンとたたきつけるぐらいのことはしていた。丁老師の発勁講座しかりである。

 何というか、上海の方が伝統武術的な雰囲気というか味が漏れ出している感じがあった。

 余談だが、後に日本太極拳協会では周元龍老師の陳式太極拳が人気で、8mmフィルムでの学習会ができたりした。

 

 推手では傅鍾文老師に相手をしていただいたことが、印象深く記憶に焼き付いている。柔らかく包み込まれるようで、完全にコントロールされていると感じる。そういうところは劉晩蒼老師に似ているようでもあるが、触れた感覚が違って、その違いはなんとも表現しにくいものがある。ただ達人と言われる老師方の共通点は、こちらがコントロールされつつも気持ちが良いということかと思う。

 傅鍾文老師の推手は、沈身ではあるが重くない(鈍重でない)、動作は軽快であるが浮き上がらない、という楊澄甫老師の教えを体現しているようであった。これももちろん今思い返してのことで、当時はそんなことも知らなかったのだが。

 

 朝練、体育館での訓練の他、参観や遊覧の合間に剣や八十八式を練習したりもした。北京でも上海でも老師方の示範演武を8mmフィルムに収めることもでき、今回の訪中の首尾としては、まあまあ満足できるものになったのではなかろうか。

 

 次回は上海での参観や遊覧を紹介しよう。

 

 

2020年7月25日 (土)

【私の武術慢歩】 魔都?、上海

 16日。朝体をほぐしてから革命公園へ。太極拳や少年たちの基本長拳を見る。

 鐘楼、西安空港、小雁塔をめぐり、ホテルに戻って昼食をとり、再び空港へ。13時半に離陸し、鄭州、南京を経て19時20分上海に到着した。

 空港でかなり待ったあと、21時近くになってようやく宿泊する上海大厦にたどり着く。

 上海大厦は1935年に外灘(バンド)の北部に建てられた上海のシンボル的なホテルである。外白渡橋の先にあって、外灘や黄浦江を一望できる。上海租界時代に「中国人と犬、入るべからず」という看板があったという黄浦公園は、この外白渡橋を渡ってすぐのところにある。

 

 夕食、風呂の後、団長の部屋でミーティングが始まったときは22時半になっていた。団長からの注意は以下のようなものであった。

 技術面では、基本功をやれるところまでやる。八十八式太極拳を帰国してから見せても恥ずかしくないようにせよ。
 精神面では、我々の中国の基本認識、日中友好、日本―中国の問題をキチンと総括せよ。と、こんな感じだった。まあそういう時代だったということだ。

 この時のメモに、「我愛北京天安門」「大海航行靠舵手」という歌の歌詞が書いてある。この頃は毛沢東が政敵を倒し権威を高めるために文革を推し進めていて、ほとんど個人崇拝になっていたのはこうした歌からもうかがえるのだが、当時はそんなことは思ってもみなかった。中国は多くの日本人にとって憧れの国だったのである。

 

 翌日17日朝6時、黄浦公園へ行く。

 9時から秘書長がスケジュールの打ち合わせをし、9時半に発表。

 10時に出発し、上海市内遊覧、上海市第一百貨商店で買い物。

 ホテルに戻って昼食、昼寝の後、訓練交流ということで上海市南市区体育館へ。「熱烈歓迎日本太極拳代表団」の大きな看板があり驚いた。

 

 体育館には、中華全国体育総会上海分会副分会長の吉嘉先生をはじめ、傅鐘文老師、顧留馨老師、周元竜老師、馮如竜老師、播錦生老師、洪雯雯老師など、錚々たるメンバーが揃っていた。
 傅鐘文老師は楊式太極拳の創始者楊露禅の孫・楊澄甫先生の娘婿で、楊式太極拳の継承者である。顧留馨老師は楊澄甫先生の弟子だ。

 

 最初に我々が八十八式太極拳をお見せして、そのあと上海の6人の老師が表演してくれる。北京とはだいぶ趣が違う気がする。

 周元竜老師が我々一人ずつに老師を付けてくれる。私の老師は丁金友老師である。上海業余体育学校の教練で39歳だそうだ。

 丁老師に八十八式太極拳を見ていただく。お尻が出る、胸を張っている、肘が上がるなど、基本的な所を直される。手(上半身)と足(下半身)の動きを一致させるようにとのことであった。

 小島さんは主に長拳系の基本功を習っている。

 

 明日から本格的に訓練が始まる。半日訓練、半日参観のスケジュールだ。

 思えば、当初の予定通りなら今日帰国していたはずだ。なんだか妙な気分である。

 ともあれ、上海での活動はまだまだ続く。

 

 

2020年7月18日 (土)

【私の武術慢歩】 悠久の都、西安

 西安は陝西省の省都である。古くは長安と呼ばれていた。西周から秦、漢などを経て十三代にわたり都であり続けた。漢代に「長安」と名づけられ、隋・唐の時代は日本の知識人の憧れであった。平安京のモデル、遣隋使・遣唐使、またシルクロードの起点として日本人には知られている。明代に「西安」と命名され、現在に至る。

 

 15時から参観。西安市博物館を経て大雁塔に向かう。西遊記でおなじみの玄奘三蔵の設計らしい。上に登って市内を眺めると、大雁塔から放射状に道路が伸びて、特に西には真っ直ぐな道路がはるか彼方に続いている。曇り空にバニシング・ポイントがかすんで、その先のシルクロードに思いを馳せる。

 ホテルは西安賓館である。誰かが「西安は中国で二番目に食事がマズイと言われている」と言っていたが、ホテルの夕食はそんなことはなかった。

 

 翌15日、朝練後朝食。8時半にホテルを出発し、武術訓練チームを参観する。

 何人いたか定かでないが、10~20人ぐらいの選手が、絨毯を敷いたコートの対角線上を進みながら技を出していく。対角線の端まで行ったら隣の角まで走って、クロスした対角線上を進むことを、技を替えながら延々と続ける。

 我々が太極拳学習団だからだろう、まず基本動作を見せてくれる。突きや蹴り、跳躍技など36種類!その後それを各々が違う組み合わせで行う。基本動作と言ってもかなり複雑なものも多く、とにかくすごい。

 その後表演に入る。

 長拳、地尚拳、太極拳、剣、棍、刀、槍、三節棍、対練は拳(男)、銃剣同士(男)、槍(男)対双匕首(女)、三節棍(男)対棍(女)、集団の剣など15種目に及び、圧巻だった。

 我々の世代では、趙長軍選手は中国武術隊のエースで、「趙長軍と言えば地尚拳、地尚拳と言えば趙長軍」というほどの名手であり、日本では李連傑(ジェット・リー)より早く知られていた。映画『少林寺』の主役も、断らなければ趙長軍になっていたという話もある。

 彼は西安の出身でこのとき15歳、陝西省武術隊のメンバーだった。地尚拳を演じた男子は少年武術団のメンバーと紹介されていたので、趙長軍だった可能性が高いと思う。

 

 選手たちは業余体育学校の生徒たちで、13~22歳。よく見ると顔立ちが日本人に少し似ているようで、北京などよりおっとりした感じでずいぶん違って見え、女子は昔の長安美人はかくや、と思わせる。

 

 午後は半坡博物館へ。6~7千年まえの新石器時代の遺跡、半坡遺址の遺物などを展示している。半坡遺址は5万平方メートルの広さで、1954年から1957年にかけて発掘された。

 続いて、かの有名な兵馬俑を見学する。一部なのだろうが、実際に肉眼で見ると壮観である。

 

 その後華清池へ。古くからの温泉地で、唐の玄宗が楊貴妃のために離宮を作った。「池」は温泉の意で、玄宗が入った九竜池、楊貴妃が湯浴みをした楊妃池などがあると言う。1959年に唐の時代の形を模して作ったそうで、入浴させてもらった。温泉は43度の硫黄泉で、3千年の歴史がある。

 「火鏡」という名の柿が有名だそうで、ここでごちそうになる。柘榴も名産だそうだが、もう時期が終わっていた。

 

 1936年、蒋介石が張学良らに拉致監禁される、いわゆる西安事件が起きたのもこの華清池である。「この窓から蒋介石が逃げようと身を乗り出したところを捕まりました」と説明があったが、蒋介石は裏山まで逃げてから捕まったという話もある。

 

 夜は歓迎会である。

 テーブルには、ビールのグラス、脚付きのワイングラス、それを小さくした同じ形のグラスが置いてある。最後のは何のグラスかと思ったら、白酒(バイジュウ=高粱などが原料の中国の蒸留酒)を入れるものだった。水のグラスもあったかもしれない。これが正式な宴会仕様なのだろうか。

 

 中国の宴会はやたら乾杯が多い。日本ではだいたい全員で乾杯するが、中国ではあらたまって一言挨拶して全員でやるほかに、そこかしこで個人同士の乾杯が始まる。乾杯は文字通り杯を乾すことで、注いである酒を飲み切らなければならない。そしてお互いに杯(グラス)を相手側に逆さにして飲み干したことを示す。乾杯したのに飲み干さないと失礼になるそうだ。

 まず団長の三浦さんに茅台酒の乾杯が行くわけだが、何を思ったか「後藤君、代りに受けてくれ」と言う。団長命令なのでしょうがなく従うが、私は酒が弱い。乾杯(ガンベイ)ならぬ半杯(バンベイ)ということで、飲み干さなくても良いということにしてもらう。

 茅台酒は米中正常化で毛沢東主席がニクソン大統領と会った時に出たので一気にメジャーになった。それ以降VIPにはたいがい茅台酒が出ることになったようだ。しかし中国には他にも良い白酒はいっぱいあって、私は茅台酒より五糧液の方が好きだ。

 

 私がごまかしながら飲んでいるうちに、小島さんが先に酔ってしまい、意識が朦朧としている。宴会が終わってから治療を受けることになった。

 人中(経穴名は水溝)にかなり深く太い鍼を入れていく。その後、十本の指先(経穴名は十宣)に太い鍼を刺し小さな豆粒上に血を絞り出す。点滴もしていたようである。

 これですっかり酔いが醒めて目がバッチリ開く。翌朝聞くと、そのあと眠れなかったそうだ。中国医学の力を目にしたのは初めてのことであった。

 

 明日は一路上海に向かう。

 

2020年7月11日 (土)

【私の武術慢歩】 革命の聖地・延安

 10日の夜は先生方を招いて、答礼宴を開いた。会場は豊澤園。北京料理の産みの親とも言われる老舗だとは当時知らなかった。知らないことだらけだ。

 11日晴れ、北京最終日となった。
 朝北京飯店を出て北京空港へ。毛伯浩先生、劉佐新老師、李秉慈老師、葉書勲老師、謝志奎老師が見送りに来てくださった。

 双発のプロペラ機で1時間ほど飛び山西省太原に着く。1時間余り後に再び出発。円形の虹の中に飛行機の影が見える。地上では見ることがないから驚いたが、考えてみれば当たり前のことだ。などと思っているうちに茶色の禿山が連なって、奥地に入り込んでいる感じがする。太原から1時間足らずで延安に到着した。

 1934年から1936年にかけて紅軍(中国共産党)は国民党と転戦しつつ江西省から1万2千5百キロの道のりを踏破して陝西省延安に至り、ここを本拠地にする。1947年まで中国共産党中央委員会がここに置かれ、毛沢東が党内の実権を確かなものにし、「革命の聖地」と呼ばれるようになった。『矛盾論』もここで執筆された。

 延安賓館で部屋を割り当てられ少し休息した後、革命記念館を見学する。
 夜は歓迎会で、日本風の赤飯や甘い粟餅、地酒の白酒「西方の酒」が出た。

 翌12日は南泥湾(ナンニーワン)幹部学校へ行き、革命委員会主任などの話を聞く。

 南泥湾は延安南部にあり、抗日戦争の拠点となった場所である。国民党軍の包囲により食糧や日用品を絶たれて、大生産運動により肥沃な土地に変えたそうだ。周りは見るからに荒れ地で、とても肥沃には思えないけれど。

 北京で「自力更生、克苦奮闘」というスローガンをあちこちで見かけたが、毛沢東が大生産運動を指揮した時のものらしい。
 当時の旅団の老人や幹部など何人かに話を聞いた。革命の様子や理念などを熱っぽく語ってくれる。素直な青年だった私は感心して聞いていた。

 13日は、毛主席旧居、中央大講堂など革命旧跡の見学。鳳凰山、楊家岭、棗園、王家坪など。岩を掘って住居にしているところも見た。
 夜は答礼宴である。茅台酒を飲む。小嶋さんが機嫌よく歌う。

 14日午前、柳林人民公社へ。党支部副書記長の話。

 12時45分、延安をまた双発機で出発し、50分程度で西安に着いた。

 延安での活動は一口で言うと中国共産革命教育ということだったと思う。

 しかし覚えているのは、トイレは和式で、トイレットペーパーがゴワゴワした灰色の手漉き紙だったとか、中国で初めて犬を見たとか、朝、家の前で洗面器のようなものを抱えてお粥のようなものを食べている小さな女の子の姿だとか、風景は茶色の印象しかない。
 そして、武術の「ぶ」の字も無かった。

 次回は悠久の都西安(長安)の話。

 

2020年7月 4日 (土)

【私の武術慢歩】 北京の参観

 北京飯店の朝食には白粥が出た。

 小さいころ病気の時に母親が作ってくれたお粥はねっとりと濃く、あまり好きではなかったのだが、ここのお粥は粘りがなくサラサラとしていて、米粒はとても柔らかいが崩れていない。それに味噌か醤油の漬物を刻んで一緒に食べると美味しくて気に入ってしまった。漬物は田舎のものとよく似ている。腐乳も少しだけ入れると美味しい。

 ほかに油条(ヨウティアオ=捻じった揚げパン)、花巻(ホアジアル=マントウ(具のない饅頭の高級版でヒダヒダが花のように見える)、スープなどが出た。お粥はまだ起きていない胃腸に優しいものを食べるという、医食同源の国らしい説明があった。

 夕食はほとんど北京飯店だったと思う。メニューはあまり覚えていないが、少しも脂っこいことはなく美味しかった。食べたときは分からなかったが、初めてフカヒレも食べた。


 北京飯店では、河原崎長十郎と永六輔を見た。民間外交はいろいろな方面で盛んなようだ。

 

 練習の合間に、いろいろ参観(見学)がある。

 6日午後には工人体育場でマスゲームを見た。工人とは労働者のことだという。ここは全国体育大会をやったところで、8万人の観客が入るそうだ。

 グランドでは1万5千人のマスゲームが行われ、観客席では1万人が大きなスケッチブックのようなものを掲げ、絵を変えていくことでアニメーションになる。軍艦から砲弾を打ち出して水柱が上がったり、よくできている。あまりに揃っているので指揮者がどこかにいるのかと思ったが、分からなかった。

 合わせて2万5千人は中学生が中心で、小学生や人民解放軍も交じっているそうだ。これほど大規模のものは10年に一度しか見られないとのことである。準備にも1年を要したそうだ。

 イメージしにくいと思うが、北朝鮮が今やっているものを想像していただければよさそうである。

 後で聞いたが、同じ時間に毛沢東主席が会場に来ていたそうだ。
 彼はこの翌年1976年9月9日に82歳で亡くなる。ほどなく四人組が失脚し、華国鋒が彗星の如く現れる。

 

 7日は快晴で、青空が高い。「天高く馬肥ゆる秋」という言葉がすぐ浮かぶ。秋は好天が続き行軍しやすく、馬の餌もよく採れ栄養がいきわたるので、塞外からの攻撃に一段と備えなければならない、というのが元の意味らしい。

 この日は朝近くの公園で練習した後、万里の長城へ行く。八達嶺から長城を登り塞外を見渡せば、はるか昔が偲ばれる。長城に登ると太極拳のポーズで写真を撮りたくなるのはお約束である。

 その後、明の十三陵に行く。街でもそこかしこで香っていたが、ここでは金木犀の香りが特に強かった。長陵や地下宮の定陵を見学する。

 16時前には北京に戻り、友諠商店で買い物をする。3階の売り場に英語を勉強しているという女子がいて、少し話した。目がキラキラ輝いている。

 この後いろいろな所で見ることになるが、ホテルや百貨店のエレベータにはたいがい若い係員がいてボタンを操作してくれるのだが、暇なときは小さな木の椅子に腰かけて毛沢東語録を読んでいる。そういう若者たちが理想に燃えて、目が本当に輝いているのである。

 「輝いている目」など、日本ではマンガか小説でしか見たことがない。

 その時は目が輝いているなんて素晴らしいと感じたが、後から思うとかなり危うい状態であろう。文革もこういう目をした若者たちが起こしたのだと考えると、怖くなる。

 なお、鄧小平の改革開放以降の中国でこんな目を見ることは、二度となかった。

 

 10日の午後は北京業余体育学校を訪問した。1958年に毛主席の指示で開校し、生徒数は千余人。スポーツ9種目の中に囲碁が入っている。頭のスポーツということらしい。武術ももちろん入っている。
 体育以外は少年宮で音楽、美術、舞踊をやっており、形態は業余体育学校とほとんど変わらないそうだ。

 

 北京での活動も大詰めを迎え、明日は延安に向かう。


2020年6月27日 (土)

【私の武術慢歩】 初期の日本太極拳協会と太極拳学習訪中団

 昔の資料を探していたら、本棚から日本太極拳協会の機関誌『太極』が見つかった。1972年5月の創刊号(下の写真)、同7月の第2号、私の入会以降の1975年5月の第8号以降、欠落はあるが1981年5月の薫風号まである。

 初めの方を少し読んでみたが、忘却や記憶違いが多い。日本太極拳協会の成り立ちや初期の太極拳学習訪中団がどのようであったか、改めて少しばかり書いてみる。

 『太極』創刊号によると、この時の日本太極拳協会役員は次の通り。

 理事長:古井喜実
 理事:江崎真澄、後藤隆之助、友末洋次、三宅正一、
 専務理事:三浦英夫
 理事:渡辺弥栄司、渡辺礼輔、小坂善太郎
 監事以下略。

 政治家や官僚が名を連ねているが、相当の年配者でないとこれらの名前に見覚えはないだろう。

 衆議院議員・古井喜実氏の砂防会館での太極拳学習会と日本武道館事務局長・三浦英夫氏の日本武道館での太極拳学習会はもともと別々にあったが、1969年8月に合体して、日本太極拳協会が設立されたようだ。
 指導者として楊名時師などが当たっており、創刊号、第2号に彼の文が載っている。

 1974年2月に日本中国友好協会(以下日中友好協会と呼ぶ)が「日本体育専門家訪中団」を組織した。「日本太極拳協会で太極拳を習う」の回で、私はこれを第一次太極拳学習訪中団と誤解していた。
 実際の第一次太極拳学習訪中団はその四か月後の1974年6月のことであるらしい。双方に三浦理事長と中野晴美氏が参加している。

 この2回の訪中で学んだ太極拳は、それまで練習していた太極拳と同じ簡化二十四式ではあったが、訪中団員が愕然とするほど違うものに見えたようだ。それでその後の協会での指導は中国政府が定めたものを基準とすることになり、それまでの指導者はだんだんと武道館から足が遠のいたようである。


 私は武道館で楊名時師を一回だけ見た気がするが、記憶違いかもしれない。また、王英儒師という楊澄甫老師の弟子の方には何回か習うことができたが、それはまた別の回で書こうと思う。

 そしてさらに四か月後の10月に私が入会することになる。


 さて、次回はまた北京に戻ろう。

 

 

 

2020年6月20日 (土)

【私の武術慢歩】 北京の練習

 北京は「天高く馬肥ゆる秋」という言葉を実感させる晴天が多く、特に7日は。快晴だった。

 朝は、近くの東単公園に行くと、大勢が太極拳をやっている。現地の人に交じって八十八式太極拳をやったら、人だかりができた。

 北京体育館で、4日午後に続いて5日午前午後、6日午前で八十八式太極拳の細かい動作や姿勢などを直してもらう。手・上体・腰・足の動きを一致させることが重要と言う。分かってはいるのだが。手の高さ、爪先の角度などかなり細かい。
 二日目の午前中は少年武術団の子供たちが来て、「春が来た」「富士山」「汽車」など日本の歌を歌ってくれた。

 8日は李徳印老師に三十二式太極剣を習う。
 この日の夜は東単体育場に、八十八式太極拳の講習会を見学に行く。号令をかけての練習は興味深い。中国は武術の競技スポーツ化をすでに考えていて、いろいろな試みをしているようだ。
 我々も二十四式太極拳を表演したが、バラバラで出来が良くなかった。

 9日は剣と推手の練習。
 推手は最初分かれて場所を変え、マンツーマンで教えてもらう。私は李秉慈老師が担当してくれた。双推手で擠のときに深く押し込むように言われる。今までの楊式系の推手にはなかった動きで「えっ?」と思いながら言われるままにやるしかなかった。当時は制定拳しか見せてもらっていないので、だいぶ後で李秉慈老師は呉式太極拳の先生だと知った。今ならその推手もなるほどと思うが、その時は呉式太極拳を知らないので、戸惑うばかりだった。

 その後は同じ場所で一緒に練習するようになった。劉晩蒼老師は套路の練習の時は体育館の壁際で椅子に腰かけてニコニコと見守るばかり。背筋がピンと伸びて姿勢が良い。三浦さんが「いつも姿勢がまっすぐで崩れないので位牌先生と呼ばれている」と教えてくれた。「推手の神様」とも。
 その劉晩蒼老師が、推手になるとやおら立ち上がり、相手をしてくれる。そばにはいつも馬長勲老師が付いている。劉晩蒼老師のお弟子さんだとは最近まで知らなかった。劉晩蒼老師の推手はふわりと柔らかく、とても心地よいものだった。


 2018年に日本で馬長勲老師の『太極拳を語る』(BABジャパン)という本が出版され、翻訳の植松百合子さんから贈呈していただいた。彼女は以前恵比寿で一緒に稽古した仲間だから、記憶している人も多いだろう。130ページから日本太極拳学習訪中団(第一次、第二次)の話が載っているので参考にしてほしい。いただいたから言う訳ではないが、とても良い本なので勉強になると思う。一読を(何読でも)お勧めする。

 「日本太極拳協会で太極拳を習う」の回で第一次太極拳学習訪中団について推測を述べたが、どうやら正しくなかったようなので、北京訪問中の話の最中であるが、一時中断して次回はその辺を書いてみたい。


2020年6月13日 (土)

【私の武術慢歩】 北京での練習開始と歓迎宴

 今回の訪中団の目標は、以下のようなものであった。

 (1)二十四式太極拳を完成に近づける
 (2)八十八式の習得
 (3)推手の習得
 (4)武術基本功を学ぶ
 (5)できれば太極剣を習いたい

 それに中国と中国人の生活を肌で感じたいということもあり、少しでも中国語を習っておきたかったと感じた。

 当時は文化大革命(文革)の真っただ中で、とても素晴らしいものだと外国にも宣伝されており、日本にも特にインテリ層に新中国にあこがれる人多かった。ただその実態はほとんど知られておらず、当時の私もその辺まったく無知だった。

 文化大革命は1966年から1976年まで続いた無産階級文化大革命で、1977年に終結した。名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という文化の改革運動だったが、今は中国共産党内部の権力闘争だったと見なされている。古いもの、伝統的なものは何でも「封建的である」と「打破」の対象となった。有産階級や知識階級が弾圧され、伝統武術家もかなり迫害されたと、後で知ることになる。

 文革は、毛沢東主席の指示の元、四人組(四人帮)と呼ばれた江青、張春橋、姚文元、王洪文の四名が絶大な権力を握り主導した。一番若い王洪文は1973年の10全大会で党副主席・党政治局常務委員に大抜擢され、「ヘリコプター」と言われ、このころ絶頂期だった。
 紅衛兵は毛沢東に主導された学生運動で、武力闘争が過激化し収拾がつかなくなって、膨大な死者が出た。紅少兵は紅衛兵より年少(7歳~14歳)の児童組織で、首に赤いスカーフを巻いていた。隊列を組んでさっそうと街中を行進する様子は、移動中に車の中から何回か目撃した。

 さて、14:30北京市体育館に向かう。
 本日4日の午後、5日午前午後、6日午前の4回で八十八式太極拳を仕上げ、7日は休み、8日午前午後に太極剣、9日午前午後に推手、計8回の練習予定である。

 教授陣は、準備体操をしてくれた李秉慈老師、日本で二十四式の8mmフィルムで見知っていた葉書勲老師、同じく八十八式の劉高明老師(北京工人文化宮業余武術班)、いつも人民帽をかぶっている謝志奎老師、北京武術分会の責任者の劉佐新老師、少年武術団コーチの呉彬老師、北京師範学院教授の李徳印老師(李天驥師の甥)、長身白髪の老武術家・劉晩蒼老師(七十歳ということだ)、メガネの馬長勲老師。
 15:00より17時まで主に八十八式太極拳を練習した。李徳印老師が主導しているように見えた。

 18:00より歓迎宴を開いてくれる。北京飯店の円卓である。
 中華全国体育総会の主催で、趙正洪主席が第一ホストとなる。席は時計回りに、趙正洪、中野、劉国常、武田、馬長勲、葉書勲、後藤、毛伯浩、李徳印、潮田、劉佐新、陳鄂生、三浦(敬称略)の順である。小嶋さんの名前が抜けているのは、私が書き漏らしたか彼の調子が良くなかったのか分からない。

 第一ホストの趙正洪主席の右隣りが第一ゲストの三浦さん、左隣が第二ゲストの中野さん。第一ホストの趙正洪主席の対面に第二ホストの毛伯浩師が来る。通訳の陳さんが第一ゲストを第一ホストと挟む形になる。中国式宴会席順の公式通りで、中国は序列や席次には本当に厳しいと感じる。私は第二ホストの右隣りで、ここで良いのだろうかと思ったが、気にしてもしょうがない。
 ホスト側がゲストの皿に料理を取り分けて気を遣ってくれる。これも作法にかなったやり方。私には優しい葉書勲老師が絶えず取り分けてくれて、「謝謝!」が追い付かない。緊張していて料理に何が出たのかあまり覚えていないが、美味しかった気がする。

 お開きの後、北京首都体育館に移動して、20:00~22:00中国とスイスの体操競技の交流を見学する。

 ホテルに帰って、24:00から総括と称する反省会である。明日に備えて早く寝なければ。

 次回も練習(当時は訓練と呼んでいた)と参観(見学)が続く。


 *****

 

 少し細かすぎるかもしれないが、記録の意味で書けるところはできるだけ書いておこうと思う。ご容赦いただきたい。




2020年6月 6日 (土)

【私の武術慢歩】 はじめての中国、初めての北京

 外国へ行くのも初めて、中国も北京も、飛行機に乗るのさえ初めてで、出発当日はだいぶ緊張していたと思う。

 羽田空港を15:45に離陸し、大阪空港(関空は1994年の開港なので、これは伊丹)、上海空港を経由して北京空港へ飛ぶ。

 女性の客室乗務員は紺の制服に白いシャツ、下はスラックスだ。若い人はおさげ髪で、ちょっと年配の人はおかっぱ風、独身女性はおさげ、おかっぱ風は既婚者と知ったの後の話である。英語と中国語を話すが日本語はダメ。
 クッキーの他に茘枝やジャスミン茶(茉莉花茶)が出たのは中国らしい。茘枝については「楊貴妃が長安に取り寄せて愛用した美容食」と三浦さんが教えてくれた。

 上海空港に着いたのは19:40、上空から見た上海は明かりが疎らで暗く、到着した空港も薄暗かった。上海で夕食をとるなどして再び出発、北京空港に着いたのは22:20だった。中国武術協会の責任者(たぶん副主席か秘書長)だという毛伯浩氏と老師の方々が出迎えてくれた。

 北京空港も上海空港と同様に薄暗くだだっ広い。タラップを降りて空港ビルまで歩く。空港から市内への道は広くまっすぐで、他の車もほとんどない。暗くてまわりの様子もよく分からない中をひた走って、北京に来たのだという感慨と不安が入り混じった状態で市内に入った。市内も街灯がナトリウムランプのような黄色で薄暗い感じである。長安街に入って、北京飯店に到着した。

 当時は北京飯店と言えばVIPが泊まるホテルとして有名だった。夜食をとって明日の予定の簡単な説明がある。責任者は劉国常氏、通訳は陳鄂生氏とのこと。明日は7時起床、8時朝食、9時スケジュール説明など。

 各部屋に分かれる。私は新館12階の1237号室で、潮田君と同室である。なんだかVIPになった気分で床に就いたときは1時半になっていた。

 朝目覚めて外を見ると窓は長安街に面していて、広い通りをおびただしい数の自転車が流れてゆく。自動車はあまり見かけない。

 ホテルの一階で油条、花巻、豆乳の朝食。

 毛伯浩先生、葉書勲老師、李秉慈老師、呉彬老師が来てくれていて、9時から日程の説明である。

 日程を聞いて愕然とした。なんと二週間のはずが三週間だという。二週間でもようやく会社の許可をもらったのに更にもう一週間も延びるなどと、入社二年目の若造に許されるのだろうか。かと言って中国政府の招待を一人だけ途中で帰国するなど想像もできない。

 半分ボーっとしながら聞いていると、日程詳細は3日から10日まで北京、13日まで延安、16日まで西安、24日まで上海ということだった。

 午前の残りの時間、友誼商店で買い物。外国人専用の百貨店であり、一般の中国人は入れない。美術工芸品などもあって、目を楽しませてくれる。中で両替ができ、この時のレートが1元154.5円だった。

 昼食後、練習に向かう。

 次回は北京での練習などの活動報告を。

 

 

2020年5月30日 (土)

【私の武術慢歩】 第二次太極拳学習訪中団

 このころは、いざなぎ景気が終わり景気は下り坂で、1973年の第1次オイルショックの影響でトイレットペーパーの買い占め騒ぎ、狂乱物価が起こる。これで高度経済成長期が終わりを告げ低成長期が始まる。

 日中国交正常化の立役者である田中角栄は1974年末に首相を辞任する。
 不況によって私の勤める会社も人員整理をすることになり、事務部門に配転になる。この辺の話は後で出てくると思う。

 そんな時期、就職して二年目1975年の夏に、中国に太極拳を習いに行かないかと三浦さん(三浦英夫専務理事)からお声がかかった。第二次太極拳学習訪中団である。

 私は太極拳を始めて一年も経たない時期だったが、指導員の下の研究員として指導する側に回っていた。
 太極拳がどんどん面白くなってきた時期で、もちろん本場で学びたいし、中国はおいそれと行ける国でもない、すごいチャンスである。ありがたく拝命したが、旅程は二週間だという。入りたての会社員がそんなに休みが取れるものかと思ったが、直属上司が優しい人で、なんとかオーケーを出してもらった。

 三浦英夫団長、中野晴美秘書長と言うことで、秘書長と言うのは中国式でナンバー2のことらしい。副団長と言うことだなと理解した。

 他のメンバーは武田幸子さん、小嶋光男さん、潮田強君と私だった。武田さんは後に「女子太極拳クラブ」を主宰する。小嶋さんは長拳グループで活躍していた。この件は別稿とする。潮田君は後の第四次訪中団でも一緒で、八極拳を習うことになる。これも別稿で。

 当時は中国へ行くのはかなり難しく、中国政府のインビテーションが必要だった。この訪中団は国家体育委員会か中華全国体育総会の招待だったと思う。中国の組織はよく分からない。
 政府の招待だから、中国滞在中の費用はすべて中国政府持ちで、往復の飛行機代だけ本人負担だということだった。そんなうまい話があるのかと思ったが、その飛行機代が30万円という結構な額で、当時の私の月給4~5か月分だったと思う。何とか工面できた。

 出発は1975年10月3日14:55発の中国民航924便である。当時の中国の航空会社は1社だけで、中国航路は日本航空も就航していたと思うが、中国政府の招待で行くのだから中国の飛行機を使うのが礼儀、みたいなことを三浦さんが言っていた。

 成田空港が開港するのはまだ先のことで、1978年5月に新東京国際空港として開港し、一般には成田空港と呼ばれていた。私ぐらいの年配なら、成田闘争(三里塚闘争)を覚えているだろう。成田国際空港株式会社として民営化されるのは2004年のことである。
 というわけで、この時は当然羽田空港からの出発となる。

 次回は中国へ飛ぶ。

 

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