私の武術慢歩

2020年9月26日 (土)

【私の武術慢歩】 第二次訪中団以降の協会の主な活動

 以下は第二次学習訪中団から第四次直前までの訪中学習など協会の主な活動の概観である。出来事を網羅しているわけではない。

 また、これらの訪中団には、私は参加していない。

 

 

 第二次訪中団の翌年、1976年11月10日~24日までの15日間にわたり第三次日本学習訪中団が派遣された。
 この年、毛沢東主席、朱徳委員長の死去、それに続く四人組失脚、唐山大地震など、大事件が相次いでおり、第三次訪中団はその後のことである。

 

 17日まで北京で学習と見学など、残りは広州、桂林、上海での見学であった。

 学習は北京のみで、内容は簡化、八十八式、推手、基本功であった。

 

 この時、四十八式と六十六式はすでに作られ、中国では盛んに行われていたようである。ただし、この訪中団での学習はならなかった。外国人に普及するまではオーソライズされていなかったのかもしれない。六十六式はその後姿を消す。

 

 メンバーは以下の九名(敬称略)。

 団長・中野晴美、秘書長・沢田文七郎、以下は団員で、小島光男、尾崎春子、中張雅夫、諸住昌弘(福岡)、松井信博、川崎雅雄(大阪)、宮崎雅吉(盛岡)。



 1978年1月14日から27日まで、“太極拳友好之翼”訪中団が上海、南京、揚州、無錫を訪れた。130名が5班に分かれての大掛かりな訪中団だった。

 上海では各式太極拳の表演大会が開かれ、楊式、呉式、陳式、武式、孫式の五大流派が表演された。

 

 

 同年7月26日から8月2日にかけて、三浦専務理事、中野指導員、高谷寛氏の3名が特訓のため上海を訪れる。

 日本人による四十八式太極拳の学習は、この時から開始されたことになる。

 

 帰国直後の5日~8日、オリンピック青少年センターにて第3回全国講習会が開かれ、130名が参加する。

 ここで公認指導員養成講習会が開かれ、長谷川園子、武田幸子、潮田強、尾崎春子、住田克己、松井信博、高谷寛、宮崎雅吉(盛岡支部)宮内信隆(福岡支部)の各氏と私の10名が公認指導員となった。



 その直後の8月12日、日中平和友好条約が締結される。

 

 この頃から「太極拳は技撃である」と言う言葉を聞くようになったようだ。

 太極拳は健康体操だ、と言っていたころから、かなり様変わりした。

 12月から鄧小平の改革開放政策が始まる。その機運が武術界にも影響していたかもしれない。

 

 1979年の年頭には第四次訪中団の派遣が決定される。

 同年3月25日より4月1日にわたって、上海特訓団が派遣された。

 メンバーは、中野晴美、武田幸子、遠藤靖彦の三氏である。

 

 楊式太極拳・刀は傅鐘文師が演じ、陳式太極拳を周元龍師、呉式太極拳を孫潤志師、武式太極拳を浦公達師、孫式太極拳を陳興坤師が演じた。

 

 この時の8mmフィルムは我々に大きな衝撃と影響を与えた。フィルムにはこの他、八卦掌や形意拳、練功十八法も収められていたはずだ。

 

 周老師の陳式太極拳には多くのファンができ、後にこのフィルムを基に有志数名による勉強会ができたほどだ。私も参加したが、フィルムを少しずつ見ては動作を真似するというものですごく手間がかかり、ビデオの無い時代によくやったものだと思う。

 私が孫式太極拳に興味を持ったのもまさにこのフィルムがきっかけであり、観たのは第四次訪中の僅か二週間前のことだった。

 

 学習種目は、伝統楊式太極拳、太極刀、太極杆、陳式太極拳、四十八式太極拳、太極推手、武術基本功、理論学習など多岐にわたり、このメンバーでなければ難しかったのではと思わせる内容だった。指導は周元龍師が行った。

 伝統太極拳は日本人としては “太極拳之翼” 訪中団のメンバーに公式に披露されていたが、教授を受けるのはこれが最初だったであろう。

 

 

 第四次訪中団はその一か月余り後になる。

 その前に、協会の仲間たちとの中国武術以外の私的な活動や、日本の武道に関することにも、何回か触れておきたい。

 

 

2020年9月12日 (土)

【私の武術慢歩】 太極拳協会の人びと

 私が日本太極拳協会に入った当時すでに誰がいたのか、私の後に入ってきた人は誰か、今となっては判然としないが、とりあえず初期のころどんな人たちがいたのか、記憶をたどってみよう。

 

 三浦英夫専務理事、中野晴美指導員はおなじみ。そのほかの主な方々を思いつくまま挙げてみる(敬称略)。

 

東京本部

 長谷川園子(事務責任者)

 高谷寛

 品川美那子(第四次訪中団メンバー)

 武田幸子(第二次訪中団メンバー、現・女子太極拳クラブ)

 小嶋光男(第二次・第三次訪中団メンバー)

 潮田強(第二次・第四次訪中団メンバー)

 尾崎春子(=早瑠子、第三次訪中団メンバー、現・無拳無意求太極会)

 根本一己(現・日本老螳螂拳研究会)

 松井信博(第三次訪中団メンバー)

 江澤一雅(第四次訪中団メンバー、現・東京陳氏太極拳研究会)

 中川二三生(現・太極拳練神会)

 田口久雄(第四次訪中団メンバー)

 沢田文七郎(第三次訪中団秘書長)

 出口衆太郎(現・自然身法研究会)

 遠藤靖彦(現・太我会)

 などなど....。

 

 支部の方々も忘れてはならない。

 1975年4月の理事会で福岡支部が承認されたのを皮切りに、大阪支部、名古屋支部、仙台支部などが次々にできた。

 

福岡支部

 宮内信隆(第四次訪中団団長)

 諸住昌弘(第三次訪中団メンバー)

大阪支部

 川崎雅雄(第三次訪中団メンバー)

 増田尚子(第四次訪中団メンバー)

名古屋支部

 三輪修嗣(=修二、第四次訪中団メンバー)

仙台支部

 永井久義(第四次訪中団メンバー)

 新島邦宣(第四次訪中団メンバー)

 

 上記の中にもそれ以外にも「太極拳友好之翼」訪中団に参加されている方は多いが、煩雑になるので記述を省いた。

 

 古い方なら知った名前を何人も見つけられたことだろう。

 その他にも数多の会員がいるが、すぐ思いつかなかったのは私の老齢のためとご容赦いただきたい。

 上記の方々との活動については挙げるときりがないので、いずれまたの機会に書こうと思う。

 

 

2020年9月 5日 (土)

【私の武術慢歩】 生活の変化で協会は半年休み

 東京に出て会社勤めを始め、かなり長い研修の後配属されたのは、営業推進部というところだった。営業のサポートをするということで、デモ・プログラムを書いたりするSE的な仕事で、満足していた。

 

 ところが1973年末ぐらいからのオイルショックで景気が落ちていき、私の勤める会社でも配属されてそんなに経たないうちに人員整理があった。

 

 私が回されたのは業務部で、商品の入出庫などを管理する部門であり、主な仕事は帳簿付け、たまに平和島の倉庫で在庫管理をする。

 都市鉱山などと言って、廃棄する電子機器からレア・メタルを取り出すのは今や常識だが、その頃は電子基盤の接触部からメッキした金を取り出すために業者に払い下げるということをしていた。

 帳簿は紙の台帳にペンをインク瓶につけて手書きしていて、これがコンピュータ会社か?と呆然とした。

 不景気で仕事もあまりないので、帳簿をコンピュータ化するプログラムを書いたりしていたが、そんなものはすぐ終わってしまう。ソフトウェア技術者志望としては、なんとも面白くない毎日だった。

 太極拳訪中団に行ったのもこうした中でのことだ。

 

 小田急線百合ヶ丘に会社の寮があり、新宿で中央線に乗り換え四ツ谷から会社まで徒歩10分。新宿駅の乗り換えでは、細かく切り返しながら、ぶつからないよう人の波を縫って進む練習をしていた。
 ちなみに隣の新百合ヶ丘は私の入社時にはなく、その年にできる。

 

 会社から早く帰る日や休日は、よく新宿に出て紀伊国屋書店に行っていた。

 新宿駅東口から紀伊国屋書店まで大した距離ではないが、その間にティッシュ配りが10人以上はいる。意識操作の訓練のつもりで「今日はもらわない」「今日はもらう」とどちらかに決めて、いろいろ工夫していた。ティッシュをもらわないようにするのは難しくない。気配を消すというより、威圧する感じで近づくと手持ちもあり渡せる距離なのにくるりと後ろを向いてしまったりするのが面白かった。もらうのは難しい。威圧してもだめだし、気配を消すともらえない。

 会社の同僚と協会の仲間以外は友達もいないので、よくこんな一人遊びをしていた。

 

 世の中は、1975年に長嶋茂雄がジャイアンツを引退、私は武道館の帰りに中華屋のテレビそれを視ていた。

 歌謡曲では、井上陽水「氷の世界」、山口百恵「ひと夏の経験」、かぐや姫「22才の別れ」、布施明「シクラメンのかほり」、イルカ「なごり雪」などが街に流れていたと思う。

 

 

 そうこうしているうちに、同じ部の他課の同僚二人が国産大手コンピュータ・メーカーのF社に中途採用されて転職し、ソフト開発部門に配属された。「後藤も来いよ」ということで私も中途採用試験を受けて、1976年5月の連休明けから出勤することになった。
 最初の会社には2年ちょっといたことになる。
 転職にあたって、訪中団の3週間延長事件を許してくれた優しい課長が「良かったな!」と喜んでくれた。

 

 次の会社の配属先は、超大型コンピュータのOS(オペレーティングシステム=基本ソフト)の開発部隊で、その中でもスーパバイザ(基本ソフトの中のさらに基本部分)の開発に回され大満足だった。

 仕事は忙しく、やはり協会に通うのは慣れるまで無理なようだった。
 開発したプログラムは実機でデバッグ(エラーを除く)しなければいけないが、超大型コンピュータは会社にもそんなに何台もあるわけではなく、デバッグするのに割り当てられる時間は深夜のことが多い。配属されて最初のころ、ひと月徹夜6回、残業時間90時間というのが、私の会社人生の残業最高記録である。

 

 住み家は池上線の久が原駅近くのぼろアパートを借り、蒲田のシスラボというビルに通う。

 職場は6階にあり、出勤時は練習のつもりで階段を2段か3段ずつ登っていた。朝の忙しい時間帯、皆はエレベータを使うので目撃され不審に思われることもない。

 後足を勢いよく蹴りだすのではなく、できるだけ重心の上下動が無くズルーっと滑らかに進むように練習した。ナメクジのように止まらず急がず、しかも一気に登る。下半身の関節、主に股関節を緩める感覚が有効だったと思う。太極拳の姿勢や動きが安定してきたのも、これと無関係ではないだろう。

 

 駅から仕事場まで大した距離ではないが、脳内訓練として、太極拳の動きや用法などを考えるのも楽しい。つい無意識に手がヒラヒラ動いたりするのは誰でも経験していると思う。

 

 

 転職に当たって、協会の三浦専務理事や仲間には「新しい仕事に慣れるまで休みます」と言って了解を得た。最初の会社も慣れるまで半年かかったので、今度もそのぐらいだろうと思っていた。

 

 実際、ほぼ半年後の1976年秋には協会に復帰した。

 

 その時、羽田教室は続いていたのかハッキリしないが、私は戻らなかった。なぜかは覚えていない。太極拳のリハビリに専念していたのか。

 

 そのころ千代田総合体育館での長拳系の練習は始まっており、いつからか私もそちらに参加する。

 

 詳しい内容は別稿で。

 

 

 

2020年8月29日 (土)

【私の武術慢歩】 長拳系の練習と羽田先生

 前回、王英儒先生の著書のことを書いたが、タイトルは『健全なる人生の真理』だったと思われる。

 

 1975年だと思うが(ひょっとしたら1974年の暮れかもしれない)、練習の時に三浦専務理事が一人の男性を伴って現れ、紹介してくれた。羽田先生と言って、帰国した中国残留日本人孤児だと言うことだった。

 

 終戦時に旧満州(中国東北部)には150万人ほどの日本人がいたが、終戦の混乱とソ連の参戦・侵攻もあって、日本への引揚げは困難を極めた。やむなく小さな子供を知り合いの中国人に預けたり、置き去りにしなければならない場合もあって、その人達を中国残留日本人孤児と呼ぶ。

 

 日中国交回復後、残留孤児の肉親捜しと日本帰国が事業化される。公的な肉親捜しの第一回は1981年で、47名の集団帰国がかなうのだが、それ以前から個人的に帰国できた人はいたようだ。

 山崎豊子の小説『大地の子』を読むとその辺の事情がうかがえる。1995年にはTVドラマ化もされ、ご存知の方も多かろうと思う。主役・陸一心役の上川隆也も良かったが、養父役の朱旭の演技が素晴らしく、中国人の情愛の深さを余すことなく表現していて、何度視ても必ず泣いてしまう。陸一心の奥さん役の蒋雯麗も良かった。この人は『覇王別姫』にも出ていたと思う。
 未見の方は機会があればぜひ視てほしい。

 

 話を戻して羽田先生であるが、ハルビンの武術隊にいたということで、武術基本功を中心に、彼から有志が教わることになった。

 

 武道館の田安門寄りに石垣の小高い場所があり、そこで日曜日か土曜日に練習することになった。普段の太極拳の練習は木金の週2回なので、週3回武道館で練習ということである。ちなみにこの頃は入会金千円、月謝千円で、武道館の練習すべてに参加できた。

 

 基本功では、最初はヤートイというのをやる。後で圧腿と書くと知ったが、とにかく大腿・下腿の裏を中心に全面、内側、外側と4つの側面をストレッチする。当時はストレッチとはまだあまり言わなかったかもしれない。要するに柔軟体操である。これを毎回最初に30分間やるのである。

 これを念入りにやっておかないとケガをする、と言われたのだが、実際に練習中に血管が切れて大腿の裏が真っ黒に内出血した人がいたようだ。

 

 続いてティートイという足上げをやる。踢腿と書く。両手を横に開いて胸を張り、前に進みながら片方ずつ正面に足を振り上げる。腰を曲げずに股関節だけを折るようにして、反らせた爪先を額に着けるように上げるのである。

 しばらく続けて爪先が額に着くようになったら、羽田先生が寄ってきて「額を蹴ると危ないから顎の先を狙うように」と言った。

 またしばらくして顎に着きそうになるとまた先生が寄ってきて、「危ないから顎の横にずらすように」と言われた。右足なら顎の左側に爪先がいって襷掛けのようになる。

 

 その後は、体の側面に足を上げる側踢腿、顔の前に両手を掲げて足の甲をリズミカルに打ちながら進む拍脚、脚を外回しにする擺蓮脚、内回しにする里合腿など、いろいろな蹴り技があった。

 記憶が曖昧だが、弓歩や仆歩などの歩形や打突の練習もあったと思う。

 今までの太極拳とは違う早い動きで面白く、楽しく練習していた。



 套路っぽいものでは、シャオジャーというのもやった。これは後で考えると八極小架だったようである。

 少林拳や小虎燕という型もやった。特に後者は最後に飛び技が集中していて、体力筋力に乏しい私としては苦しかったが、なんとか形にはなったかと思う。小架はシャオジャーと言っていたが、少林拳や小虎燕はショウリンケン、ショウコエンと言い、中国語読みと日本語読みがごっちゃになっていたのが可笑しい。

 

 皆さんご存知の日本老螳螂拳研究会主宰・根本一己先生が協会に入ってきたのがこの頃で、まだ高校生の紅顔の美少年だった。羽田教室には最初から参加していたと思う。

 彼と、第二次訪中団のところで出てきた小島さん、潮田くんとが上達も早く技にも切れがあり、この長拳系の練習(と呼んでいたと思う)の中心になっていた。

 

 この数年、根本一己先生の少林拳や小虎燕の表演を久々に拝見する機会があった。功夫の高さは言うまでもないが、四十数年経っても軽やかな動きと技の切れが衰えていないのはすごいことである。



 後に孫剣雲老師から「孫家拳に圧腿、踢腿は必要ない」と言われ、その後圧腿や踢腿は練習するのをやめた。だが、孫家拳に出会う前にやっていたことは、無駄ではなかったと感じている。

 

 私の羽田教室での練習は1976年4月まで続くが、仕事関係による環境の変化で、協会から離れてしまう。半年後に協会に復帰するのだが、羽田教室に戻ることはなかった。

 

 その辺の話は次回に。

 

 

2020年8月22日 (土)

【私の武術慢歩】 王英儒先生のこと

 興奮の初訪中から帰ったので、日本太極拳協会でのことに戻ることにする。

 当面は私が孫式太極拳に出会うまでのあれこれを書いていくつもりだが、思い出しつつ書いていくので何回ぐらいになるか分からないし、時間も前後することもあるだろう。あらかじめご了承いただきたい。

 

 とりあえず入会したての頃に戻る。

 私が日本太極拳協会に入ったときは、すでに1974年6月の第一次太極拳学習訪中団のメンバーを中心とする指導体制に切り替わっていたようである。師範制から指導員制に切り替わるのも、もうすぐだ。師範の楊名時先生は、たぶんもう練習に顔を出していなかったと思う。

 

 私が日本太極拳協会(以降「協会」と略す)に入会したてで、簡化二十四式太極拳を覚え始めたころ、王英儒先生という方がときおり練習会場に顔を出して、いろいろなことを教えてくださっていた。

 王英儒先生は華僑と聞いたような気がするが、定かでない。

 王先生は、楊式太極拳の創始者楊露禅先生の孫である楊澄甫先生に、上海で教えを受けた。教わるときは顧留馨老師とともにどちらかの自宅に楊澄甫先生を招いて稽古し、束脩として金の延べ棒を積んだと聞いた。

 

 王英儒先生は練習に偶にしかお見えにならないので、私は入会したてで何を習うわけではないのだが、お見掛けしたらできるだけ傍にいるようにしていた。

 

 今も思い出すのは、八十八式太極拳を練習しているところで「楊式太極拳ではこうだ」と言って摟膝拗歩の左式を何回か繰り返して見せてくださった場面である。打ち出す右の手を、肘はあまり伸ばさずにコンパクトにさっとこめかみに持っていき「このほうが速い」と言うのが、いかにも武術的に見えた。

 

 もう一つは、練習の時に拳でも掌でも固いものを打ってはならず、蹴りでも固いものを蹴ってはならない、ということだった。

 当時はまだ中国武術はあまり知られておらず、映画のタイトルでも「香港カラテ」とあって、一般に空手と区別されていない場合も多かった。空手には巻藁突き、ボクシングにはサンドバッグ打ちというのはよく知られていただろう。そういう背景でこういう話が出てきたのだろう。

 そのうえで、拳・掌で打ちたいときは部屋に水平に紐を張り、そこにタオルなどの布を掛けてそれを打つようにする。蹴る場合は、脚を固定していない木の椅子を蹴り飛ばすぐらいが限度である、ということだった。

 

 簡化太極拳の形を追うのに必死だった私だが、早い時期にこういう伝統拳の基本的なことを教わったのは貴重なことだった。

 

 惜しいことに王英儒先生は1974年11月23日に亡くなってしまう。私がお会いしたのは入会してひと月半の間の数回だけだった。もっといろいろ教えていただきたかった。

 

 先生の没後しばらくして、先生が自費出版された分厚い本をいただいたのだが、哲学的なのか宗教的なのか当時の私にはまったく歯が立たず、本棚に眠っている間に数回の引っ越しで紛失してしまった。今なら多少は理解できたかもしれないと思うと残念なことである。

 

 次回は長拳系の練習について書く予定だ。


2020年8月15日 (土)

【私の武術慢歩】 中国を離れる

 10月3日から24日にかけての中國での全行程が終了した。

 初めて本場の本物の太極拳に触れ、なんとなくやっていた太極拳も本気度が上がった。

 北京と上海の老師方とは、今後もご縁が続いてご指導を受けられると嬉しい。

 表側だけだとしても、生の中国を見ることができた。初めての外国が中国だったのも、何か自分の人生に意味のある事のように思える。

 

 最終日の上海は曇り空だった。老師の方々や通訳、意師の先生方、新華社のカメラマンが見送りに来てくれた。

 いろいろな感想が頭の中に浮かびまとまらぬまま、午前10時上海空港を出発して一路日本へ。これで中国の非日常から日本の日常に戻ることになる。

 

 下の写真は、上海の老師の方々のサインである。北京ではサインをいただく心の余裕がなかった。小さいメモ用紙というのも残念である。

 

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 次はまた日本太極拳協会の話に戻る。



2020年8月 8日 (土)

【私の武術慢歩】 上海、参観と遊覧

 上海での訓練以外の活動は以下のようなものだった。

 

○上海二日目(到着翌日)午前:上海市内遊覧

 これは前に触れた。

○三日目午後:彰浦新村参観

 解放前は野菜畑だったところに1958年大解放の年に工場と住宅団地が建ち、その後増築。沈さん一家の家庭訪問。いかに素晴らしい生活かを事細かに力説される。訪問した家庭は素晴らし過ぎて、いかにも参観者用にあつらえました、という感じである。

○同日夜:マレーシアvs上海・男女バスケット試合観戦

○四日目午後:黄浦江遊覧

 黄浦江を船で下る。かなり下ってから急に視界が開け、「海に出た!」と思ったら、長江に出ただけだった

 船上で通訳の陳さんが、我々に対してこう言った。

「中国は昔から日本にいろいろ素晴らしいものを輸出してきました」

「ただ、一つだけ悪いものを輸出したことをお詫びしなければなりません」

「それは、孔子です」

 毛沢東自身が後継指名した林彪が死んだ後1973年から1976年まで、「批林批孔」の政治運動が繰り広げられた。

 儒教は革命に対する反動だとし、林彪は儒教を復活させようとした、と難癖をつけて一派を徹底的に弾圧した。

 陳通訳の言葉は、まさに時流を読んでの言葉だったと思う。それを知らなければ「この人何を言ってるの?」と白い目を向けていたはずだ。

 

○同日夜:民族音楽舞踏(延安劇場にて)

 

○五日目午前:上海万人体育館参観

 1万8千人を収容する円形の大体育館。素晴らしい設備を力説。

○同日夜:中華全国体育総会上海分会主催歓迎会(上海大廈)

 ホテル上階の宴会場に着くと、だいぶ上の幹部らしき人がいて、テーブルには上海蟹が山のように積まれている。季節的にちょうど雌の旬で、卵がたくさん入っている。日本で上海蟹はまだポピュラーではなかったと思う。私も見るのも食べるのも初めてだった。

 食べられるだけ食べると隣の別室に案内された。甘い生姜湯が出て、それが蟹の殻で傷ついた口の中にしみる。蟹は体を冷やすので、体を温める生姜を摂ってバランスをとるのだそうだ。

 歓談も一段落で宴会も終わりかと思いきや、「では食事にしましょう」とそれから本格的な晩餐になるのだった。「あらかじめ教えておいてくれ~!」と心の中で叫んだのは私だけではなかったはずだ。

 

○六日目午前:上海市工業展覧会参観

 造船から医療機器まで、広範な工業製品の説明があった。

 私の職業も把握していたのか、電子計算機についてかなり詳しい説明があった。ただし内容はNCNumerical Control =数値制御)がほとんどで、汎用機専門の私は興味がなかった。

 

○七日目午後:少年宮参観

 少年宮は子どもの課外活動の場で、文芸・スポーツ・科学・遊戯などのないようである。遊戯場のような所もあり、我々もひとしきり楽しんだ。射撃があったのも中国らしいと感じた。
 我々もいろいろやってみて、かなり楽しんだ。

 

○八日目午前:上海市上海県塘湾人民公社(幸福大隊武術学習班)参観

 人民公社は延安でたっぷり見た。説明の革命委員会事務室副主任の蒋さんの説明だった。普通の人民服はカーキ色で見るからに綿でゴワゴワした感じだが、彼のは人民服のデザインではあるが紺色で、生地が柔らかそうで艶がある。三浦団長が、英国産のウールだと言う。幹部だと着るものまで違うのか、共産主義でそれでいいのか?と心の中で突っ込みを入れた。


○同日夜:日本側主宰答礼宴

 

 中国での活動も大詰めを迎え、明日はいよいよ帰国の途に就く。



2020年8月 1日 (土)

【私の武術慢歩】 上海での訓練

 上海到着の10月16日を初日とすると、上海二日目の17日から八日目の23日までは午前午後のどちらかを訓練に当て、もう片方を参観に当てるというスケジュールで、24日午前に帰国の途に就く。

 

 朝はだいたい6時ごろから黄浦公園などで練習をした。周元竜老師が八十八式太極拳や圧腿を指導してくださったりした。

 圧腿は、片足を台にのせて水平ぐらいにしてストレッチする。大腿・下腿の前面、後面、外側、内側と四方向を伸ばすやり方を教えてもらった。

 

 体育館での半日の訓練は、主に八十八式太極拳、三十二式太極剣、推手を練習する。小島さんは長拳基本功を中心の練習で、体力的に大変そうだった。

 

 私は丁金友老師に、みっちり指導していただく。

 八十八式太極拳は、上海の老師の方々全般に北京と雰囲気や細かいところに違いがあり、時に戸惑うこともあった。

 

 丁金友老師の動きは、脚からの力が腰の低く粘るような回転によって肩、腕、手へと、波打つように伝わっていくのが分かる。言葉が通じないので、何度も繰り返し動作を示してくださるのが、ありがたくも申し訳ない気持ちになる。

 丁金友老師からの注意は以下のようなものだった。

  • 鬆肩沈肘
  • 主宰於腰
  • 虚領頂勁
  • 上下相随
  • 気沈丹田

 知識として知ってはいてもどう体現するかは難しく、実際の動きや姿勢で指導していただけたのは貴重な体験であった。

 

 丁金友老師は、剣がかなり得意(好き)のように見うけられる。太極剣の要領として、腰(腹)の回転移動と、視線の方向が大事で、これらは太極拳動作と同じ要領であると教わった。「腰帯剣(即一動百動)であり、発於腿、主宰於腰、開於手指」であると。

 七日目には丁老師に私の太極剣を「好!」と言っていただけたのは嬉しいことだった。

 

 何日目だったか、練習の合間にベンチで休んでいると、丁老師がすぐ隣に腰かけてきた。何だろうと思う間もなく、発勁講座が始まった。

 ピッタリ体を寄せたところから丁老師が肩や肘、腰で発勁すると、私の体がポンと横に飛ぶ。いわゆる靠と言うことなのだろう。距離が無いので寸勁と言っても良いのかもしれない。

 私も真似してやってみるが、なかなかうまく勁が伝わらない。何度もやっていただき、ひとしきり試させていただいても、十分の一もできたかどうか。

 

 ここで北京と上海との違いを考え付いたのだが、北京では「太極拳は技撃(武術)ではありません」と明言されていたし、公園でやっている太極拳も制定拳しか見られなかった。老師方の表演も制定拳だけで、集体表演も教科書のように皆ピッタリと揃う。発勁など口にです感じではなく、推手でも飛ばされることなどなかった。

 しかしそれが上海では、老師方の伝統太極拳も拝見できたし、公園ではいろいろな武術や気功のようなものが見られた。もっとも公園引率の周元龍老師(前回まで周元竜老師と書いていたが、日本では周元龍老師と書くのが普通のようなので合わせることにする。もちろん中国では簡体字なのだから問題にならない)は「あれは本物ではありません」と言ってはいたが。

 周元龍老師がホテルに来てくれてロビーで推手の相手をしていただいたが、何度か回した後にポンと飛ばして後ろの太い柱にピタンとたたきつけるぐらいのことはしていた。丁老師の発勁講座しかりである。

 何というか、上海の方が伝統武術的な雰囲気というか味が漏れ出している感じがあった。

 余談だが、後に日本太極拳協会では周元龍老師の陳式太極拳が人気で、8mmフィルムでの学習会ができたりした。

 

 推手では傅鍾文老師に相手をしていただいたことが、印象深く記憶に焼き付いている。柔らかく包み込まれるようで、完全にコントロールされていると感じる。そういうところは劉晩蒼老師に似ているようでもあるが、触れた感覚が違って、その違いはなんとも表現しにくいものがある。ただ達人と言われる老師方の共通点は、こちらがコントロールされつつも気持ちが良いということかと思う。

 傅鍾文老師の推手は、沈身ではあるが重くない(鈍重でない)、動作は軽快であるが浮き上がらない、という楊澄甫老師の教えを体現しているようであった。これももちろん今思い返してのことで、当時はそんなことも知らなかったのだが。

 

 朝練、体育館での訓練の他、参観や遊覧の合間に剣や八十八式を練習したりもした。北京でも上海でも老師方の示範演武を8mmフィルムに収めることもでき、今回の訪中の首尾としては、まあまあ満足できるものになったのではなかろうか。

 

 次回は上海での参観や遊覧を紹介しよう。

 

 

2020年7月25日 (土)

【私の武術慢歩】 魔都?、上海

 16日。朝体をほぐしてから革命公園へ。太極拳や少年たちの基本長拳を見る。

 鐘楼、西安空港、小雁塔をめぐり、ホテルに戻って昼食をとり、再び空港へ。13時半に離陸し、鄭州、南京を経て19時20分上海に到着した。

 空港でかなり待ったあと、21時近くになってようやく宿泊する上海大厦にたどり着く。

 上海大厦は1935年に外灘(バンド)の北部に建てられた上海のシンボル的なホテルである。外白渡橋の先にあって、外灘や黄浦江を一望できる。上海租界時代に「中国人と犬、入るべからず」という看板があったという黄浦公園は、この外白渡橋を渡ってすぐのところにある。

 

 夕食、風呂の後、団長の部屋でミーティングが始まったときは22時半になっていた。団長からの注意は以下のようなものであった。

 技術面では、基本功をやれるところまでやる。八十八式太極拳を帰国してから見せても恥ずかしくないようにせよ。
 精神面では、我々の中国の基本認識、日中友好、日本―中国の問題をキチンと総括せよ。と、こんな感じだった。まあそういう時代だったということだ。

 この時のメモに、「我愛北京天安門」「大海航行靠舵手」という歌の歌詞が書いてある。この頃は毛沢東が政敵を倒し権威を高めるために文革を推し進めていて、ほとんど個人崇拝になっていたのはこうした歌からもうかがえるのだが、当時はそんなことは思ってもみなかった。中国は多くの日本人にとって憧れの国だったのである。

 

 翌日17日朝6時、黄浦公園へ行く。

 9時から秘書長がスケジュールの打ち合わせをし、9時半に発表。

 10時に出発し、上海市内遊覧、上海市第一百貨商店で買い物。

 ホテルに戻って昼食、昼寝の後、訓練交流ということで上海市南市区体育館へ。「熱烈歓迎日本太極拳代表団」の大きな看板があり驚いた。

 

 体育館には、中華全国体育総会上海分会副分会長の吉嘉先生をはじめ、傅鐘文老師、顧留馨老師、周元竜老師、馮如竜老師、播錦生老師、洪雯雯老師など、錚々たるメンバーが揃っていた。
 傅鐘文老師は楊式太極拳の創始者楊露禅の孫・楊澄甫先生の娘婿で、楊式太極拳の継承者である。顧留馨老師は楊澄甫先生の弟子だ。

 

 最初に我々が八十八式太極拳をお見せして、そのあと上海の6人の老師が表演してくれる。北京とはだいぶ趣が違う気がする。

 周元竜老師が我々一人ずつに老師を付けてくれる。私の老師は丁金友老師である。上海業余体育学校の教練で39歳だそうだ。

 丁老師に八十八式太極拳を見ていただく。お尻が出る、胸を張っている、肘が上がるなど、基本的な所を直される。手(上半身)と足(下半身)の動きを一致させるようにとのことであった。

 小島さんは主に長拳系の基本功を習っている。

 

 明日から本格的に訓練が始まる。半日訓練、半日参観のスケジュールだ。

 思えば、当初の予定通りなら今日帰国していたはずだ。なんだか妙な気分である。

 ともあれ、上海での活動はまだまだ続く。

 

 

2020年7月18日 (土)

【私の武術慢歩】 悠久の都、西安

 西安は陝西省の省都である。古くは長安と呼ばれていた。西周から秦、漢などを経て十三代にわたり都であり続けた。漢代に「長安」と名づけられ、隋・唐の時代は日本の知識人の憧れであった。平安京のモデル、遣隋使・遣唐使、またシルクロードの起点として日本人には知られている。明代に「西安」と命名され、現在に至る。

 

 15時から参観。西安市博物館を経て大雁塔に向かう。西遊記でおなじみの玄奘三蔵の設計らしい。上に登って市内を眺めると、大雁塔から放射状に道路が伸びて、特に西には真っ直ぐな道路がはるか彼方に続いている。曇り空にバニシング・ポイントがかすんで、その先のシルクロードに思いを馳せる。

 ホテルは西安賓館である。誰かが「西安は中国で二番目に食事がマズイと言われている」と言っていたが、ホテルの夕食はそんなことはなかった。

 

 翌15日、朝練後朝食。8時半にホテルを出発し、武術訓練チームを参観する。

 何人いたか定かでないが、10~20人ぐらいの選手が、絨毯を敷いたコートの対角線上を進みながら技を出していく。対角線の端まで行ったら隣の角まで走って、クロスした対角線上を進むことを、技を替えながら延々と続ける。

 我々が太極拳学習団だからだろう、まず基本動作を見せてくれる。突きや蹴り、跳躍技など36種類!その後それを各々が違う組み合わせで行う。基本動作と言ってもかなり複雑なものも多く、とにかくすごい。

 その後表演に入る。

 長拳、地尚拳、太極拳、剣、棍、刀、槍、三節棍、対練は拳(男)、銃剣同士(男)、槍(男)対双匕首(女)、三節棍(男)対棍(女)、集団の剣など15種目に及び、圧巻だった。

 我々の世代では、趙長軍選手は中国武術隊のエースで、「趙長軍と言えば地尚拳、地尚拳と言えば趙長軍」というほどの名手であり、日本では李連傑(ジェット・リー)より早く知られていた。映画『少林寺』の主役も、断らなければ趙長軍になっていたという話もある。

 彼は西安の出身でこのとき15歳、陝西省武術隊のメンバーだった。地尚拳を演じた男子は少年武術団のメンバーと紹介されていたので、趙長軍だった可能性が高いと思う。

 

 選手たちは業余体育学校の生徒たちで、13~22歳。よく見ると顔立ちが日本人に少し似ているようで、北京などよりおっとりした感じでずいぶん違って見え、女子は昔の長安美人はかくや、と思わせる。

 

 午後は半坡博物館へ。6~7千年まえの新石器時代の遺跡、半坡遺址の遺物などを展示している。半坡遺址は5万平方メートルの広さで、1954年から1957年にかけて発掘された。

 続いて、かの有名な兵馬俑を見学する。一部なのだろうが、実際に肉眼で見ると壮観である。

 

 その後華清池へ。古くからの温泉地で、唐の玄宗が楊貴妃のために離宮を作った。「池」は温泉の意で、玄宗が入った九竜池、楊貴妃が湯浴みをした楊妃池などがあると言う。1959年に唐の時代の形を模して作ったそうで、入浴させてもらった。温泉は43度の硫黄泉で、3千年の歴史がある。

 「火鏡」という名の柿が有名だそうで、ここでごちそうになる。柘榴も名産だそうだが、もう時期が終わっていた。

 

 1936年、蒋介石が張学良らに拉致監禁される、いわゆる西安事件が起きたのもこの華清池である。「この窓から蒋介石が逃げようと身を乗り出したところを捕まりました」と説明があったが、蒋介石は裏山まで逃げてから捕まったという話もある。

 

 夜は歓迎会である。

 テーブルには、ビールのグラス、脚付きのワイングラス、それを小さくした同じ形のグラスが置いてある。最後のは何のグラスかと思ったら、白酒(バイジュウ=高粱などが原料の中国の蒸留酒)を入れるものだった。水のグラスもあったかもしれない。これが正式な宴会仕様なのだろうか。

 

 中国の宴会はやたら乾杯が多い。日本ではだいたい全員で乾杯するが、中国ではあらたまって一言挨拶して全員でやるほかに、そこかしこで個人同士の乾杯が始まる。乾杯は文字通り杯を乾すことで、注いである酒を飲み切らなければならない。そしてお互いに杯(グラス)を相手側に逆さにして飲み干したことを示す。乾杯したのに飲み干さないと失礼になるそうだ。

 まず団長の三浦さんに茅台酒の乾杯が行くわけだが、何を思ったか「後藤君、代りに受けてくれ」と言う。団長命令なのでしょうがなく従うが、私は酒が弱い。乾杯(ガンベイ)ならぬ半杯(バンベイ)ということで、飲み干さなくても良いということにしてもらう。

 茅台酒は米中正常化で毛沢東主席がニクソン大統領と会った時に出たので一気にメジャーになった。それ以降VIPにはたいがい茅台酒が出ることになったようだ。しかし中国には他にも良い白酒はいっぱいあって、私は茅台酒より五糧液の方が好きだ。

 

 私がごまかしながら飲んでいるうちに、小島さんが先に酔ってしまい、意識が朦朧としている。宴会が終わってから治療を受けることになった。

 人中(経穴名は水溝)にかなり深く太い鍼を入れていく。その後、十本の指先(経穴名は十宣)に太い鍼を刺し小さな豆粒上に血を絞り出す。点滴もしていたようである。

 これですっかり酔いが醒めて目がバッチリ開く。翌朝聞くと、そのあと眠れなかったそうだ。中国医学の力を目にしたのは初めてのことであった。

 

 明日は一路上海に向かう。

 

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