私の武術慢歩

2020年7月 4日 (土)

【私の武術慢歩】 北京の参観

 北京飯店の朝食には白粥が出た。

 小さいころ病気の時に母親が作ってくれたお粥はねっとりと濃く、あまり好きではなかったのだが、ここのお粥は粘りがなくサラサラとしていて、米粒はとても柔らかいが崩れていない。それに味噌か醤油の漬物を刻んで一緒に食べると美味しくて気に入ってしまった。漬物は田舎のものとよく似ている。腐乳も少しだけ入れると美味しい。

 ほかに油条(ヨウティアオ=捻じった揚げパン)、花巻(ホアジアル=マントウ(具のない饅頭の高級版でヒダヒダが花のように見える)、スープなどが出た。お粥はまだ起きていない胃腸に優しいものを食べるという、医食同源の国らしい説明があった。

 夕食はほとんど北京飯店だったと思う。メニューはあまり覚えていないが、少しも脂っこいことはなく美味しかった。食べたときは分からなかったが、初めてフカヒレも食べた。


 北京飯店では、河原崎長十郎と永六輔を見た。民間外交はいろいろな方面で盛んなようだ。

 

 練習の合間に、いろいろ参観(見学)がある。

 6日午後には工人体育場でマスゲームを見た。工人とは労働者のことだという。ここは全国体育大会をやったところで、8万人の観客が入るそうだ。

 グランドでは1万5千人のマスゲームが行われ、観客席では1万人が大きなスケッチブックのようなものを掲げ、絵を変えていくことでアニメーションになる。軍艦から砲弾を打ち出して水柱が上がったり、よくできている。あまりに揃っているので指揮者がどこかにいるのかと思ったが、分からなかった。

 合わせて2万5千人は中学生が中心で、小学生や人民解放軍も交じっているそうだ。これほど大規模のものは10年に一度しか見られないとのことである。準備にも1年を要したそうだ。

 イメージしにくいと思うが、北朝鮮が今やっているものを想像していただければよさそうである。

 後で聞いたが、同じ時間に毛沢東主席が会場に来ていたそうだ。
 彼はこの翌年1976年9月9日に82歳で亡くなる。ほどなく四人組が失脚し、華国鋒が彗星の如く現れる。

 

 7日は快晴で、青空が高い。「天高く馬肥ゆる秋」という言葉がすぐ浮かぶ。秋は好天が続き行軍しやすく、馬の餌もよく採れ栄養がいきわたるので、塞外からの攻撃に一段と備えなければならない、というのが元の意味らしい。

 この日は朝近くの公園で練習した後、万里の長城へ行く。八達嶺から長城を登り塞外を見渡せば、はるか昔が偲ばれる。長城に登ると太極拳のポーズで写真を撮りたくなるのはお約束である。

 その後、明の十三陵に行く。街でもそこかしこで香っていたが、ここでは金木犀の香りが特に強かった。長陵や地下宮の定陵を見学する。

 16時前には北京に戻り、友諠商店で買い物をする。3階の売り場に英語を勉強しているという女子がいて、少し話した。目がキラキラ輝いている。

 この後いろいろな所で見ることになるが、ホテルや百貨店のエレベータにはたいがい若い係員がいてボタンを操作してくれるのだが、暇なときは小さな木の椅子に腰かけて毛沢東語録を読んでいる。そういう若者たちが理想に燃えて、目が本当に輝いているのである。

 「輝いている目」など、日本ではマンガか小説でしか見たことがない。

 その時は目が輝いているなんて素晴らしいと感じたが、後から思うとかなり危うい状態であろう。文革もこういう目をした若者たちが起こしたのだと考えると、怖くなる。

 なお、鄧小平の改革開放以降の中国でこんな目を見ることは、二度となかった。

 

 10日の午後は北京業余体育学校を訪問した。1958年に毛主席の指示で開校し、生徒数は千余人。スポーツ9種目の中に囲碁が入っている。頭のスポーツということらしい。武術ももちろん入っている。
 体育以外は少年宮で音楽、美術、舞踊をやっており、形態は業余体育学校とほとんど変わらないそうだ。

 

 北京での活動も大詰めを迎え、明日は延安に向かう。


2020年6月27日 (土)

【私の武術慢歩】 初期の日本太極拳協会と太極拳学習訪中団

 昔の資料を探していたら、本棚から日本太極拳協会の機関誌『太極』が見つかった。1972年5月の創刊号(下の写真)、同7月の第2号、私の入会以降の1975年5月の第8号以降、欠落はあるが1981年5月の薫風号まである。

 初めの方を少し読んでみたが、忘却や記憶違いが多い。日本太極拳協会の成り立ちや初期の太極拳学習訪中団がどのようであったか、改めて少しばかり書いてみる。

 『太極』創刊号によると、この時の日本太極拳協会役員は次の通り。

 理事長:古井喜実
 理事:江崎真澄、後藤隆之助、友末洋次、三宅正一、
 専務理事:三浦英夫
 理事:渡辺弥栄司、渡辺礼輔、小坂善太郎
 監事以下略。

 政治家や官僚が名を連ねているが、相当の年配者でないとこれらの名前に見覚えはないだろう。

 衆議院議員・古井喜実氏の砂防会館での太極拳学習会と日本武道館事務局長・三浦英夫氏の日本武道館での太極拳学習会はもともと別々にあったが、1969年8月に合体して、日本太極拳協会が設立されたようだ。
 指導者として楊名時師などが当たっており、創刊号、第2号に彼の文が載っている。

 1974年2月に日本中国友好協会(以下日中友好協会と呼ぶ)が「日本体育専門家訪中団」を組織した。「日本太極拳協会で太極拳を習う」の回で、私はこれを第一次太極拳学習訪中団と誤解していた。
 実際の第一次太極拳学習訪中団はその四か月後の1974年6月のことであるらしい。双方に三浦理事長と中野晴美氏が参加している。

 この2回の訪中で学んだ太極拳は、それまで練習していた太極拳と同じ簡化二十四式ではあったが、訪中団員が愕然とするほど違うものに見えたようだ。それでその後の協会での指導は中国政府が定めたものを基準とすることになり、それまでの指導者はだんだんと武道館から足が遠のいたようである。


 私は武道館で楊名時師を一回だけ見た気がするが、記憶違いかもしれない。また、王英儒師という楊澄甫老師の弟子の方には何回か習うことができたが、それはまた別の回で書こうと思う。

 そしてさらに四か月後の10月に私が入会することになる。


 さて、次回はまた北京に戻ろう。

 

 

 

2020年6月20日 (土)

【私の武術慢歩】 北京の練習

 北京は「天高く馬肥ゆる秋」という言葉を実感させる晴天が多く、特に7日は。快晴だった。

 朝は、近くの東単公園に行くと、大勢が太極拳をやっている。現地の人に交じって八十八式太極拳をやったら、人だかりができた。

 北京体育館で、4日午後に続いて5日午前午後、6日午前で八十八式太極拳の細かい動作や姿勢などを直してもらう。手・上体・腰・足の動きを一致させることが重要と言う。分かってはいるのだが。手の高さ、爪先の角度などかなり細かい。
 二日目の午前中は少年武術団の子供たちが来て、「春が来た」「富士山」「汽車」など日本の歌を歌ってくれた。

 8日は李徳印老師に三十二式太極剣を習う。
 この日の夜は東単体育場に、八十八式太極拳の講習会を見学に行く。号令をかけての練習は興味深い。中国は武術の競技スポーツ化をすでに考えていて、いろいろな試みをしているようだ。
 我々も二十四式太極拳を表演したが、バラバラで出来が良くなかった。

 9日は剣と推手の練習。
 推手は最初分かれて場所を変え、マンツーマンで教えてもらう。私は李秉慈老師が担当してくれた。双推手で擠のときに深く押し込むように言われる。今までの楊式系の推手にはなかった動きで「えっ?」と思いながら言われるままにやるしかなかった。当時は制定拳しか見せてもらっていないので、だいぶ後で李秉慈老師は呉式太極拳の先生だと知った。今ならその推手もなるほどと思うが、その時は呉式太極拳を知らないので、戸惑うばかりだった。

 その後は同じ場所で一緒に練習するようになった。劉晩蒼老師は套路の練習の時は体育館の壁際で椅子に腰かけてニコニコと見守るばかり。背筋がピンと伸びて姿勢が良い。三浦さんが「いつも姿勢がまっすぐで崩れないので位牌先生と呼ばれている」と教えてくれた。「推手の神様」とも。
 その劉晩蒼老師が、推手になるとやおら立ち上がり、相手をしてくれる。そばにはいつも馬長勲老師が付いている。劉晩蒼老師のお弟子さんだとは最近まで知らなかった。劉晩蒼老師の推手はふわりと柔らかく、とても心地よいものだった。


 2018年に日本で馬長勲老師の『太極拳を語る』(BABジャパン)という本が出版され、翻訳の植松百合子さんから贈呈していただいた。彼女は以前恵比寿で一緒に稽古した仲間だから、記憶している人も多いだろう。130ページから日本太極拳学習訪中団(第一次、第二次)の話が載っているので参考にしてほしい。いただいたから言う訳ではないが、とても良い本なので勉強になると思う。一読を(何読でも)お勧めする。

 「日本太極拳協会で太極拳を習う」の回で第一次太極拳学習訪中団について推測を述べたが、どうやら正しくなかったようなので、北京訪問中の話の最中であるが、一時中断して次回はその辺を書いてみたい。


2020年6月13日 (土)

【私の武術慢歩】 北京での練習開始と歓迎宴

 今回の訪中団の目標は、以下のようなものであった。

 (1)二十四式太極拳を完成に近づける
 (2)八十八式の習得
 (3)推手の習得
 (4)武術基本功を学ぶ
 (5)できれば太極剣を習いたい

 それに中国と中国人の生活を肌で感じたいということもあり、少しでも中国語を習っておきたかったと感じた。

 当時は文化大革命(文革)の真っただ中で、とても素晴らしいものだと外国にも宣伝されており、日本にも特にインテリ層に新中国にあこがれる人多かった。ただその実態はほとんど知られておらず、当時の私もその辺まったく無知だった。

 文化大革命は1966年から1976年まで続いた無産階級文化大革命で、1977年に終結した。名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という文化の改革運動だったが、今は中国共産党内部の権力闘争だったと見なされている。古いもの、伝統的なものは何でも「封建的である」と「打破」の対象となった。有産階級や知識階級が弾圧され、伝統武術家もかなり迫害されたと、後で知ることになる。

 文革は、毛沢東主席の指示の元、四人組(四人帮)と呼ばれた江青、張春橋、姚文元、王洪文の四名が絶大な権力を握り主導した。一番若い王洪文は1973年の10全大会で党副主席・党政治局常務委員に大抜擢され、「ヘリコプター」と言われ、このころ絶頂期だった。
 紅衛兵は毛沢東に主導された学生運動で、武力闘争が過激化し収拾がつかなくなって、膨大な死者が出た。紅少兵は紅衛兵より年少(7歳~14歳)の児童組織で、首に赤いスカーフを巻いていた。隊列を組んでさっそうと街中を行進する様子は、移動中に車の中から何回か目撃した。

 さて、14:30北京市体育館に向かう。
 本日4日の午後、5日午前午後、6日午前の4回で八十八式太極拳を仕上げ、7日は休み、8日午前午後に太極剣、9日午前午後に推手、計8回の練習予定である。

 教授陣は、準備体操をしてくれた李秉慈老師、日本で二十四式の8mmフィルムで見知っていた葉書勲老師、同じく八十八式の劉高明老師(北京工人文化宮業余武術班)、いつも人民帽をかぶっている謝志奎老師、北京武術分会の責任者の劉佐新老師、少年武術団コーチの呉彬老師、北京師範学院教授の李徳印老師(李天驥師の甥)、長身白髪の老武術家・劉晩蒼老師(七十歳ということだ)、メガネの馬長勲老師。
 15:00より17時まで主に八十八式太極拳を練習した。李徳印老師が主導しているように見えた。

 18:00より歓迎宴を開いてくれる。北京飯店の円卓である。
 中華全国体育総会の主催で、趙正洪主席が第一ホストとなる。席は時計回りに、趙正洪、中野、劉国常、武田、馬長勲、葉書勲、後藤、毛伯浩、李徳印、潮田、劉佐新、陳鄂生、三浦(敬称略)の順である。小嶋さんの名前が抜けているのは、私が書き漏らしたか彼の調子が良くなかったのか分からない。

 第一ホストの趙正洪主席の右隣りが第一ゲストの三浦さん、左隣が第二ゲストの中野さん。第一ホストの趙正洪主席の対面に第二ホストの毛伯浩師が来る。通訳の陳さんが第一ゲストを第一ホストと挟む形になる。中国式宴会席順の公式通りで、中国は序列や席次には本当に厳しいと感じる。私は第二ホストの右隣りで、ここで良いのだろうかと思ったが、気にしてもしょうがない。
 ホスト側がゲストの皿に料理を取り分けて気を遣ってくれる。これも作法にかなったやり方。私には優しい葉書勲老師が絶えず取り分けてくれて、「謝謝!」が追い付かない。緊張していて料理に何が出たのかあまり覚えていないが、美味しかった気がする。

 お開きの後、北京首都体育館に移動して、20:00~22:00中国とスイスの体操競技の交流を見学する。

 ホテルに帰って、24:00から総括と称する反省会である。明日に備えて早く寝なければ。

 次回も練習(当時は訓練と呼んでいた)と参観(見学)が続く。


 *****

 

 少し細かすぎるかもしれないが、記録の意味で書けるところはできるだけ書いておこうと思う。ご容赦いただきたい。




2020年6月 6日 (土)

【私の武術慢歩】 はじめての中国、初めての北京

 外国へ行くのも初めて、中国も北京も、飛行機に乗るのさえ初めてで、出発当日はだいぶ緊張していたと思う。

 羽田空港を15:45に離陸し、大阪空港(関空は1994年の開港なので、これは伊丹)、上海空港を経由して北京空港へ飛ぶ。

 女性の客室乗務員は紺の制服に白いシャツ、下はスラックスだ。若い人はおさげ髪で、ちょっと年配の人はおかっぱ風、独身女性はおさげ、おかっぱ風は既婚者と知ったの後の話である。英語と中国語を話すが日本語はダメ。
 クッキーの他に茘枝やジャスミン茶(茉莉花茶)が出たのは中国らしい。茘枝については「楊貴妃が長安に取り寄せて愛用した美容食」と三浦さんが教えてくれた。

 上海空港に着いたのは19:40、上空から見た上海は明かりが疎らで暗く、到着した空港も薄暗かった。上海で夕食をとるなどして再び出発、北京空港に着いたのは22:20だった。中国武術協会の責任者(たぶん副主席か秘書長)だという毛伯浩氏と老師の方々が出迎えてくれた。

 北京空港も上海空港と同様に薄暗くだだっ広い。タラップを降りて空港ビルまで歩く。空港から市内への道は広くまっすぐで、他の車もほとんどない。暗くてまわりの様子もよく分からない中をひた走って、北京に来たのだという感慨と不安が入り混じった状態で市内に入った。市内も街灯がナトリウムランプのような黄色で薄暗い感じである。長安街に入って、北京飯店に到着した。

 当時は北京飯店と言えばVIPが泊まるホテルとして有名だった。夜食をとって明日の予定の簡単な説明がある。責任者は劉国常氏、通訳は陳鄂生氏とのこと。明日は7時起床、8時朝食、9時スケジュール説明など。

 各部屋に分かれる。私は新館12階の1237号室で、潮田君と同室である。なんだかVIPになった気分で床に就いたときは1時半になっていた。

 朝目覚めて外を見ると窓は長安街に面していて、広い通りをおびただしい数の自転車が流れてゆく。自動車はあまり見かけない。

 ホテルの一階で油条、花巻、豆乳の朝食。

 毛伯浩先生、葉書勲老師、李秉慈老師、呉彬老師が来てくれていて、9時から日程の説明である。

 日程を聞いて愕然とした。なんと二週間のはずが三週間だという。二週間でもようやく会社の許可をもらったのに更にもう一週間も延びるなどと、入社二年目の若造に許されるのだろうか。かと言って中国政府の招待を一人だけ途中で帰国するなど想像もできない。

 半分ボーっとしながら聞いていると、日程詳細は3日から10日まで北京、13日まで延安、16日まで西安、24日まで上海ということだった。

 午前の残りの時間、友誼商店で買い物。外国人専用の百貨店であり、一般の中国人は入れない。美術工芸品などもあって、目を楽しませてくれる。中で両替ができ、この時のレートが1元154.5円だった。

 昼食後、練習に向かう。

 次回は北京での練習などの活動報告を。

 

 

2020年5月30日 (土)

【私の武術慢歩】 第二次太極拳学習訪中団

 このころは、いざなぎ景気が終わり景気は下り坂で、1973年の第1次オイルショックの影響でトイレットペーパーの買い占め騒ぎ、狂乱物価が起こる。これで高度経済成長期が終わりを告げ低成長期が始まる。

 日中国交正常化の立役者である田中角栄は1974年末に首相を辞任する。
 不況によって私の勤める会社も人員整理をすることになり、事務部門に配転になる。この辺の話は後で出てくると思う。

 そんな時期、就職して二年目1975年の夏に、中国に太極拳を習いに行かないかと三浦さん(三浦英夫専務理事)からお声がかかった。第二次太極拳学習訪中団である。

 私は太極拳を始めて一年も経たない時期だったが、指導員の下の研究員として指導する側に回っていた。
 太極拳がどんどん面白くなってきた時期で、もちろん本場で学びたいし、中国はおいそれと行ける国でもない、すごいチャンスである。ありがたく拝命したが、旅程は二週間だという。入りたての会社員がそんなに休みが取れるものかと思ったが、直属上司が優しい人で、なんとかオーケーを出してもらった。

 三浦英夫団長、中野晴美秘書長と言うことで、秘書長と言うのは中国式でナンバー2のことらしい。副団長と言うことだなと理解した。

 他のメンバーは武田幸子さん、小嶋光男さん、潮田強君と私だった。武田さんは後に「女子太極拳クラブ」を主宰する。小嶋さんは長拳グループで活躍していた。この件は別稿とする。潮田君は後の第四次訪中団でも一緒で、八極拳を習うことになる。これも別稿で。

 当時は中国へ行くのはかなり難しく、中国政府のインビテーションが必要だった。この訪中団は国家体育委員会か中華全国体育総会の招待だったと思う。中国の組織はよく分からない。
 政府の招待だから、中国滞在中の費用はすべて中国政府持ちで、往復の飛行機代だけ本人負担だということだった。そんなうまい話があるのかと思ったが、その飛行機代が30万円という結構な額で、当時の私の月給4~5か月分だったと思う。何とか工面できた。

 出発は1975年10月3日14:55発の中国民航924便である。当時の中国の航空会社は1社だけで、中国航路は日本航空も就航していたと思うが、中国政府の招待で行くのだから中国の飛行機を使うのが礼儀、みたいなことを三浦さんが言っていた。

 成田空港が開港するのはまだ先のことで、1978年5月に新東京国際空港として開港し、一般には成田空港と呼ばれていた。私ぐらいの年配なら、成田闘争(三里塚闘争)を覚えているだろう。成田国際空港株式会社として民営化されるのは2004年のことである。
 というわけで、この時は当然羽田空港からの出発となる。

 次回は中国へ飛ぶ。

 

2020年5月23日 (土)

【私の武術慢歩】 日本太極拳協会で太極拳を習う

いよいよ太極拳を習うことになった。
 
 これから先、昔のこととて記憶が怪しい。特に時系列があやふやである。今調べられることは極力調べたいとは思っているが、誤りや情報不足は避けられないだろう。訂正、追加情報をお寄せいただければありがたい。

 当時、日本太極拳協会では簡化二十四式太極拳を主に教えていた。
 この太極拳は、中華人民共和国が成立して、毛沢東が「人民体育向上のために」と国家体育委員会に命じて作らせたという。中心になったのは李天驥師だと聞いた。李天驥師の父君は李玉琳師で、孫禄堂先生の弟子だったというのを知るのは後のことだ。

 簡化太極拳は、楊式太極拳の型(套路と言うのだと教わった)を一般の人がやりやすいように短く簡単にしたもので、24の動作(技)がある。それをいくつかずつ分解して教えてもらうのだが、動きがゆっくりなので運動神経の鈍い私でも見た通り言われたとおりに動くことができる。やっているうちに面白くなり、やめられなくなってしまった。

 協会では他に、楊式太極拳を套路の順番はそのままに動作だけ簡略にした八十八式太極拳をやっていて、楊澄甫先生の八十五式をベースにしたものである。当時楊式太極拳というと、それしかないと思っていた。
 推手もやっていて、平円、立円の単推手と双推手があった。最初から活歩があったかは定かでない。

 断片的に聞いたことをまとめると、数年前、たぶん日中国交正常化の直後ぐらいと思うが、日本武道と中国武術の交流代表団が北京に行っていて、そこで習ってきた太極拳を武道館で教え始めたということのようである。日本太極拳協会ではこの代表団を第一次太極拳学習訪中団と位置付けていた。
 私が入会したころは第一次訪中団のメンバーが結構いたようだが、日が経つにつれ、だんだん少なくなっていった。

 日中国交正常化とは、日本国と中華人民共和国が日中共同声明により国交を結んだもので、1972年9月の北京で田中角栄、周恩来両首相が署名して調印された。
 1971年にピンポン外交をきっかけに米ニクソン大統領が訪中して国交を開いたが、日本では「頭越し外交」として話題になった。そこからの必然の流だったであろう。

 李自力著『日中太極拳交流史』46ページによると、古井美実氏が二度目の訪中時に簡化二十四式太極拳の図解テキストをもらったのが始まりで、1969年に日本太極拳協会を設立し会長となったとある。古井氏とともに日中国交回復に貢献した岡崎嘉平太氏の名前も当時の協会で耳にした。

 しかし本格的な太極拳の指導が行われるようになったのは、やはりこの第一次訪中団からではないだろうか。当時の太極拳の指導は、立身中正などの正しい姿勢、放鬆、視線や意識の置き方など、今の私から見てもきちんとしたものだったと思う。

 楽しく通っていて、翌年の夏には手足の冷えも気にならなくなっていた。一年も経たないうちに、いつの間にか教える側になっていた。

 協会の話はいろいろあるが、次回はとりあえず中国へ行ってみようか。



2020年5月 9日 (土)

【私の武術慢歩】 松涛会空手を見る

 小学・中学・高校・大学と、運動部の経験が一切ない。ずっと文化部で通してきた。武術・武道との関りはほとんどない。

 生まれた時から虚弱で、産婆さんが「この子は4歳まで生きられない」と言ったそうだ。しょっちゅうカゼだ気管支炎だ肺炎だと、母親におぶさっての医者通いだった。家族も過保護で、着ぶくれしてあまり外にも遊びに行かなかった。

 小学校に上がって、昼休みになると他のみんなは食事もそこそこにいなくなる。こちらは弁当を食べるのが遅いので(昔の田舎では給食がなかった)、教室にポツンと取り残される。
 ある日の昼休み、校内をうろうろしていて体育館に行くと、みんな走り回って遊んでいるではないか。なるほど昼休みは遊ぶものなのだと分かり、少しずつ混じって体を動かすうちに、運動すると体が暖かくなるということを学んだ。
 
 小学校の校庭の隅に、盛り土して四方柱に屋根を乗せた立派な土俵があった。毎年そこで相撲大会が行われたが、そもそも勝とうとか思っていないが投げられれば痛いし、体を固くして投げられないようにしていたと思う。

 大相撲は若乃花、栃錦の時代だったと思う。まだ家にテレビが無かったので、ラジオで聞くか他所の家にテレビを見せてもらいに行くかだった。まあ面白かった。
 プロレスもみんな結構好きなようだったが、私はあまり好きではなく、友達の話を聞いているぐらいだった。
 
 中学校では冬になると格技の授業があった。剣道をやる学校もあったのかもしれないが、そこでは柔道だった。秋田県の豪雪地帯で、古い体育館の戸の隙間から雪が吹き込んで、積もっている中で畳を敷いて授業をする。寒くてたまらないし足の裏は冷たくて感覚がなくなる。
 運動神経がよろしくないので体育はあまり好きではなく、球技などはからきしだが、マット運動、跳び箱や柔道はそんなに嫌いではなかった。
 筋力がないので担ぎ技など到底無理で、専ら出足払いとか送り足払いとか、力の要らないことばかりやっていた。体落としや支え釣り込み足(たしかヘーシンクの得意技ではなかったか?)は、やろうと思ったがうまくできなかった。

 一度だけ柔道が役に立ったと思ったことがある。理科の授業の準備を当番がするのだが、その時私が当番で大きなガラスの水槽に水を入れて理科室に運ぶ役目だった。
 真冬で水場の簀の子に水が垂れたのが重なって凍り付き、ズルズルに滑りやすくなっており、ツルっと滑って仰向けに転んだ。とっさに後ろ受け身の要領で頭を持ち上げ、水槽を腹の上で水平に抱えて事なきを得た。

 高校でも二年生の頃だと思うが柔道の授業があった。何を教えてくれるわけでもなく、仰向けに並べて寝かせ、足と頭を持ち上げさせて、体重80kg超の体育教師が牛若丸の八艘跳びよろしく踏みつけて行くだけで、くだらない授業だった。

 

 空手を初めて見たのは大学に入ってからである。

 新潟大学は新潟市内・西大畑キャンパスから市郊外の五十嵐浜に移転し、私たちが新キャンパス一期生である。
 新しい校舎はあちこちに砂が吹き溜まっていて、外ももちろん砂だらけ。昼休みになると、地面に砂が溜まったのか、もともと砂場として作られたのか分からないような場所で、空手部が稽古を始める。
 砂に足を取られながら、低い姿勢で走りこむように体を伸ばして拳を出していくのだが、疲れ切ってヘロヘロになっている。
 自分にできるとも思わないし、やる気もさらさら無く、全く関係ない世界としてぼんやり見ているだけだった。

 工学部は専門課程が長岡市にあって、五十嵐キャンパスの一年半の教養課程の後そちらに移る。校舎は旧長岡高専の古い木造で、ボロボロの長屋のようだった。私が卒業して何年かして、五十嵐に統合される。

 ちょうど『燃えよドラゴン』のころだったと思うが、ゼミで卒業研究にとりかかっていて、相棒が空手部のキャプテンだった。ちょうど武術に興味を持ち始めていたころなので、いろんな話を聞いた。

 今は違うようだが、その頃の新潟大学空手部は松涛会という空手で、私が聞きかじって名前だけ知っていた松濤館流とは違う、ということだった。新入生時代に目にした空手も同じだったらしい。

 私には何の知識もなく聞いているだけだった。彼らは青木先生という人から習っているらしく、いろいろ話してくれた。その人が後に新体道を創始する青木宏之氏だと知るのはもっと後のことである。ひょっとしたら新体道はもうできていたのかもしれないが、新体道という言葉をそこで聞いた覚えはない。
 ある日、彼が「本部から人が来て演武会をする」というので見に行った。何人いたのか結構な人数だったと思う。
 「栄光」というのは覚えている。「天真五相」はあったかどうか定かでない。何にせよそれまでイメージしていた空手とはちょっと違う感じがした。

 おそらくそのころ松涛会の師範は江上茂先生で、青木先生は師範代だったのではないかと思う。名著と聞いていた江上茂著『空手道入門』は久しく絶版になっていたが、最近『新装増補版 空手道入門』として復刻された。

 そのころは空手は痛くてキツそうだし、見た目がラクそうなので(失礼)「もしやるなら太極拳か合気道かな」と考えていて、後に新体道と少しでも接点ができるとは思いもよらなかった。
 
 そうこうしているうちに卒業である。就職は東京の会社に決まった。新しい生活はどうなるのか。武術のことなど頭の片隅にもなかった。

 次回はいよいよ東京で太極拳に出会う。


2020年5月 2日 (土)

【私の武術慢歩】『燃えよドラゴン』と『精説 太極拳技法』

 中国武術に出会うきっかけは人それぞれで、世代によって違うようだ。

 マンガなら『拳児』や『男組』でこの世界に入った人は多いだろう。映画ならブルース・リーやジャッキー・チェンのカンフー映画。もうちょっと新しいところでは『少林寺』とか。
 今の若い人たちならインターネットでどんな情報でも手にできるだろうから、そこからなんだろうか。 

 映画『燃えよドラゴン』の封切りは1973年であるらしい。
 マンガ『男組』は1974年から1979年、マンガ『拳児』が1988年から1992年の連載ということである。ちなみにどちらも私は少年サンデーでリアルタイムで読んでいた。

 私の場合は『燃えよドラゴン』が中国武術に興味を持つ始まりだったと思う。そのころ私は学生で、新潟県長岡市にいた。

 『燃えよドラゴン』は二回見た記憶がある。一回は一人で。もう一回は友人に誘われて、友人とその彼女、そのまた友達とダブル・デートみたいな恰好だった。余談だが、友人たちは卒業後に結婚したが、私ともう一人はさっぱり何事もなかった。

 それまで格闘系の映画はチャンバラか柔道、たまに空手が出てくるぐらいで、『燃えよドラゴン』は見たことのない新しい世界だった。

 興味を惹かれてもう少し知りたいと思っても、当時は東京ならいざ知らず、田舎町では中国武術を知る手立てはほとんどない。何か本でもあるかなと立ち寄った書店で見つけたのが、『精説 太極拳技法』だった。

 原著 楊澄甫、編著 笠尾恭二、発行所 中国武術研究会、発売元 東京書店となっている。若いころは購入日を本に書いていて、それを見ると1973,11,20となっている、一方発行日は昭和48年11月25日。発行日より早く書店に並ぶのは珍しいことでもないんだろうか。
 この時、笠尾楊柳(恭二)先生は34歳というこことになる。この本の中に精悍な若い笠尾先生を見ることができる。

 他には、佐藤金兵衛著『中国秘拳 太極拳』(愛隆堂)も買い求めたが、残念ながら今手元に無い。

 本を見ても動きが分かるわけもなく、ただ太極拳がゆっくり動くということぐらいしか分からない。教えてくれるところもある訳がないし、他に知る手立てもない。
 他に学内のサークルや学外でもやることはあったので、卒業するまで想像しているだけで、何をすることもなかった。

 次回は実際に太極拳に出会う前までの話を。

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2020年4月25日 (土)

【私の武術慢歩】予告

 会員の皆さん、こんにちは。後藤英二です。

 

 私が太極拳を始めてからだいぶ経つ。45年ぐらいか。長くやっていると、たまに会員の方から昔の話を聞かれることがある。

 こちらは何回も話したことでも、相手にとっては聞いたことがない話だったりする。あるいは何回も聞いている人もいるだろう。

 何度も語るのは面倒でもあるし、そのうち忘れそうでもある。新型コロナ騒ぎで私を含めヒマな人もいるだろうと、会員向けに少し書いておこうという気になった。


 前に『小狐は尾を濡らすか』というブログにいくつか書いたことがある。今でも見られるかもしれないが、サーバーが当の昔に契約切れになっていて残骸が見えるに過ぎない。

 その後『かかとでこきゅう』と言うブログを書いたが、アカウントの処理を間違って、こちらは今は完全に消えている。うかつなことにバックアップもない。


 両方とも孫家拳に限った話だったし、再掲するだけでは詰まらないので、もう少し範囲を拡げ、もう少し詳しい(くだらない)話も書いてみようかと思ったわけだ。

 

 最初に解題をしておくと、「私の」は、そのままで私に起きたこと私が考えたこと私の記憶にあることを書くということ。

 「武術」は、最初「太極拳」の方が通りが良いかとも思ったが、それだけやっている(いた)わけでもないし、大雑把に「武術」にしておけば何を書いても問題なかろうと。


 「慢歩」は、日本語として普通は「漫歩」だろうが、「漫歩」はあてもなくブラブラ歩くことで、私の歩みはゆっくりではあったけれど途中から、特に孫剣雲老師に出会ってからは、あてのないものでもなかったので、ゆっくり歩く意味で「慢歩」としてみた。


 ブログを書くよ、と言ってずっとほったらかしにした前科が何回もあるので、どのぐらいの頻度で書くかは言わない方がよかろうと思う。

 とりあえず次回は、私が中国武術に出会うあたりを書いてみようか。

 

 詰まらなければ読み飛ばしていただければ。

 誤りの指摘、ご意見、ご要望などあれば、孫家拳のメールに入れていただければ幸甚です。

 

 

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